100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

狭山池
【さやまいけ】


東の羽曳野(はびきの)丘陵と西の和泉丘陵との間に囲まれ,大阪狭山(おおさかさやま)市池尻・半田・岩室にまたがる池。面積39.9ha。当池は,南部の山地からの天野川と今熊川とが流れ込む三角地帯の北側に堤を築き,巨大な水量をため込むことに成功したもの。崇神・垂仁朝の創建で,古墳時代前期造築の日本最古の溜池とされていたが,最近では,池畔の段丘に見られる須恵器生産の窯跡の存在から,6世紀ごろの造築とする説もある。当池は,古代から近世にかけて,いくたびかの修築・改修を行っている。まず天平宝字6年,僧行基が池の堤決壊の際,延べ8万3,000人を動員して修復。続いて建仁2年,東大寺の僧重源が古墳付近から出土した家形石棺で樋管をつくって池に伏せ,改修を行った。また戦国期の永禄年間,畠山氏の家臣安見美作守時重によって試みられた修築は成功せず,荒廃のまま放置された。さらに江戸期の慶長13年に豊臣秀頼のもとで,片桐且元らにより摂河泉3国の水下農民を使役し,近世最大の普請が行われ,樋大工の小和田宗右衛門の考案による尺八樋が伏せられ,灌漑機能が一段と向上した。その後,管理制度として池守と樋役人が任命され,池の樋門の開閉と分水に当たった。なお,池水の分配は水割賦帳に基づき,村単位に番水制で実施され,西樋と中樋とから水下村々へ送水した。明治期以降も江戸期の池管理と分水制度が続いたが,明治31年狭山池普通水利組合が結成され,新しい管理組織で運営された。大正末期から昭和初期にかけ近代的大改修が実施され,送水方法も近代化され,池は再び灌漑農業に大きな役割を担うことになった。しかし最近では,池の水下や周辺地区で都市化が進み,灌漑農業のための水需要が減少するなかで,水質は汚濁の一途をたどり,大きな転換期にさしかかっているといえる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7150061