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深野池
【ふこのいけ】


「ふこうのいけ」ともいう。江戸初期の宝永元年まで大東市三箇(さんが)1~6丁目付近に存在した湖沼。古代,生駒(いこま)山麓に入り込んでいた草香江の名残と考えられ,年代とともにしだいに縮小し,宝永元年,大和川付替えとともに東本願寺難波別院によって干拓され,その姿を消した。古地図によると当時の池畔の村々には,堀溝・岸和田・氷野・押廻・御供田・布・中垣内・寺川・野崎・北条・南野がある。深野池の16世紀の景観については,ルイス・フロイスが「日本史」のなかで,「この飯盛城の麓には長さ4,5レグワの大きな淡水湖があって,そこには多数の小船やその他の小さな船がある」と記し,また「日本年報」には「三箇と称する小さい島が在り,領主は配下の人達と共にキリシタンであって,総数は約千五百人である。この島は大なる湖水の中央に在って,甚だ美しい堅固なる地である」と述べている。貝原益軒の「南遊紀行」にはさらに詳細に,「ふかうの池は,深野池とかくと云。本名は茨田(まんだ)池と云。池の広さ南北二里,東西一里,所により東西半里許有。湖に似たり。其中に島あり。三ケと云村有。故に此池を三ケのおき共云。三ケの島に,漁家七八十戸あり。田畠も有。此島南北廿町,東西五六町有と云。此池に,鯉,鮒,鯰,はす,わたか,ゑび,鰻鱺(うなぎ),つがに等多し,漁舟多し。日々舟に乗て漁し,魚を大坂にうる。又蓮多し。実(みずぶき)多く,葦(あし)多し。皆取用たすけとす。殊に菱(ひし)尤多し。是を採て飯にし,(だんご)にし,粥にして粮(かて)とす。或菓子にもする。又売て資とす。菱を取日は定日あり。里民云合せて群出。一人にて妄に取事を禁ず。菱に賦税はなし。又此島より,漁人共舟にのり,陸に渡りて,田をも作なり」と述べ,当時の景観と農民の生活を伝えている。現在,干拓地の水田面の標高は1~1.5mで,低いところは0.5m,湖岸は山麓寄りで3~4mで,2~3mの高低差がある。西部門真市の低地帯との比高は小さく0.5~1m,湖岸堤と思われる通路面が比高1~1.5mであることから,当池はそう深い池ではなく,伝承によっても水深1.5m程度が最深部だったようである。池中の三箇の島は比高2~2.5mで南北に長く,干拓後の寝屋川は島の東部に沿って南流している。東本願寺難波別院が干拓を申請し,地積325町余,干拓請人は河内屋源七はじめ24人の有力な町人・農民があたった。ほぼ1町(約110m)単位の計画的な水田区画を行っているので,地割の対比から干拓当時の深野池の規模を推定することができる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7153510