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堀江
【ほりえ】


古代から中世に見える河川名。「日本書紀」仁徳天皇11年冬10月条に「堀宮北之郊原,引南水以入西海,因以号其水日堀江 又将防北河之澇 以築茨田堤」とあるのが初見。これについて「古事記」仁徳天皇条に「又堀難波之堀江而通海」とある。これは河内平野を北に向かって分流する大和川や平野川などにより川尻が浅くなり溢れることと,その北部から南流する淀川の堆積によって河口部が閉塞されてその被害を大きくするのを防ぐため,北部では茨田堤を築造し,一方北流諸河川の水を西流させるために開掘されたのが難波の堀江と考えられる。したがって現在の寝屋川から土佐堀川へ通じる天満川がこれに当たる。この堀江については仁徳天皇の難波高津宮の所在をめぐって江戸期から問題にされた。「日本書紀」欽明天皇13年冬十月条には百済の聖明王が献上した仏像を物部尾輿ら排仏派が難波の堀江に流し捨てたことで知られる。「行基年譜」(続々群3)の天平十三年記に「宗(架カ)橋六所 ……長柄 中河 堀江 並三所西城郡」と見え,堀江に橋が架設されている。その後架橋については「文徳実録」仁寿3年10月11日条に摂津国が長柄・三国両河の橋梁断絶に対処して「請准堀江川 置二隻船 以通済渡」と奏して許されている記事が見え,堀江川は2隻で渡航する方式をとっている。「源平盛衰記」(有朋堂本)の忠度見名所々々の項に摂津国の名所として,江の1つとして堀江の名が見え,その附話に天暦の頃,慈悲心ある女性のもとを去った男が没落して「日々に難波の堀江に行て葦を刈て世過けり」とあり,堀江の辺りは葦原が多く見られたようである。これについて「風土記逸文」(古典大系)の八十島の項に「堀江ノ東ニ沢アリ,ヒロサ三四町許,名ヲ八十島トイフ」と見え,平安期には堀江川流域は島々が形成されつつあった低湿地であった。平安期から中世にかけては堀江は歌に詠まれることが多く,河川名としてはさほど記述はないが,「太平記」に康安元年の天王寺造営事に「難波堀江ノ汀ニ死蛇ノ如クナル物流寄タリ」と大綱の打ち寄せた奇瑞を述べており,南北朝期頃まではその名称は使用されたようである。河川名より堀江として地名化した地点の所在は,現在の寝屋川と土佐堀川の合流地点を指すものと考えられ,東区の東北端あたりが該当するものと思われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7153724