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大和川
【やまとがわ】


大阪府のほぼ中央部を西流する大阪府第二の河川。府下の指定流路延長24.7km(幹川流路延長64km)。淀川とともに大阪平野と深いかかわりをもつ河川である。奈良県東部の大和高原南部の貝ケ平山付近に発する初瀬川を源流とし,奈良盆地(大和平野)において佐保川を合わせてからの呼称。寺川・飛鳥川・曽我川・葛城川・竜田川などの奈良盆地の河川を集め,奈良県北葛城郡王寺町付近の生駒(いこま)山地南端部で,大阪・奈良府県境に位置する亀ノ瀬を中心とする約10kmの先行谷を通過し大野平野に出る。この谷筋は大阪・奈良を結ぶ国鉄関西本線・国道25号のルートとなっている。柏原(かしわら)市国分西1丁目・片山町の境で左岸に原川を,同市石川町と藤井寺市船橋町の境で左岸に当川最大の支流石川を合わせて西流,そののち松原市大堀町で東除川を,堺市浅香山町3丁で西除川をともに左岸に合わせるなどし,堺市と大阪市の境界をなして大阪湾に入る。石川との合流点から下流は,江戸期につくられた人工の流路であり,それ以前の当川(旧大和川)は,柏原付近から幾筋かに分かれて北流していた。本流であった長瀬川(八尾川または久宝寺川)は,現在の八尾(やお)市を経て,大阪市城東区放出(はなてん)付近で玉串川末流および淀川の南派流を合わせ,最後は大坂城の近くで淀川(旧淀川本流)に合流していた。八尾市弓削地区で分派した玉串川は,東大阪市花園地区で吉田川と菱江川に分かれ,吉田川は北流して深野(ふこの)池に注ぎ,吉田川の流末は,新開池を経て北西流してきた菱江川・淀川南派流を合わせ,再び長瀬川に合していた。また平野川は,八尾市植松地区で本流から分かれ,途中東除(ひがしよけ)川・西除(にしよけ)川を合わせて上町台地東縁沿いに北上,台地北端部付近で本流に合流していた。旧大和川流域である河内低地は,西の上町台地と東の生駒(いこま)山地の間に奥深く湾入した浅海が,淀川・当川の堆積作用により陸化したもので,その名残である深野池・新開池は江戸期に至るまで存在した。河内低地は,早くから人々の居住地域となっていたが,洪水など厳しい自然環境との闘いの場であった。弥生前期から中期の遺跡として知られる東大阪市の瓜生堂遺跡は,当川の大洪水のために一時放棄されたことが,遺跡を覆う洪水堆積物により推定されている。「日本書紀」仁徳天皇の条には,河内低地の洪水を防ぐため堀江を開削し,南水(大和川)の水を直ちに西海に注ぐようにしたとの記事がみられる。この堀江とは旧淀川本流,現在の大川と考えられる。旧大和川の河道は連続堤のために天井川化し,流域の水害はますます激化していった。江戸期に入ると再び当川付替えの気運が高まった。河内今米村の庄屋川中九兵衛らは,柏原から西にまっすぐ新川を開削し,当川を直接海に流すという計画を立て,幕府への請願を行った。しかし新川筋の村々の激しい反対もあって計画の実現は困難であった。九兵衛の死後,三男中甚兵衛(中家に養子に出た)らの努力の結果,ようやく幕府を動かし,河村瑞賢の手による当川の改修が行われることになった。瑞賢の考えは,当川を付け替えるのではなく,下流部の流水の疎通を図ることにより洪水を防ぐというもので,安治川の開削,当川下流部の拡幅を実施した。しかし,その効果はあがらず,甚兵衛らは再び当川付替えを幕府に対して強く請願した。そのころ上方代官に就任した万年長十郎頼治の力もあって,元禄16年に幕府は付替えを決定し,翌年2月15日起工,同年宝永元年10月13日に竣工。わずか8か月で延長7,920間(約14km)・幅100間(約180m)の新川が完成された。以来,大和川は河内低地に流入することなく,柏原から西流して上町台地の南端を横切り,堺で直接海に注ぐようになる。こうして後,河内低地は洪水の危険を大幅に取り除かれた。付替えによって新川の川床として274町余が潰地となったが,廃川となった旧大和川の河川敷の新田は1,055町歩となり,さらに当川の分流が流入していた深野池・新開池なども新田化された。また,旧河道沿いの自然堤防は砂質で水はけがよく,すでにこの地域で発展していた綿作に適していたため,綿花の作付面積が急増した。一方,新川の河口に近い堺港は,新大和川がもたらす土砂の堆積により水深が浅くなり,浚渫により水深を維持しなければならず,これが商都堺の衰退の一因ともなったといわれる。大和と難波を結ぶ大和川は,古来交通路としても利用された。古代・中世においても舟運の場として重要な役割を果たしてきたが,商業的な規模で当川舟運が発達するのは近世においてである。大和川水系で最初の舟運が行われたのは平野川筋で,安井了意が平野川筋を船の通行ができるように改修したものだが,了意の貨物輸送の営業は失敗に終わった。その後,代官末吉孫左衛門によって復活されたのが柏原船である。船は20石積みの浅川用で,最盛期には70隻が活動した。柏原船の成功に刺激されて,当川本流・石川筋にも舟運が行われるようになった。これが剣先船と呼ばれるもので,柏原船より少し大型の船であった。船数は,はじめ211隻で,のちに100隻が追加許可された。営業範囲は,大坂京橋から大和との境界の亀ノ瀬までと,石川筋では喜志(きし)(富田林(とんだばやし)市)まで,さらに当川に接続する鯰川・楠根川・恩智川・寝屋川にも進出した。大和へ荷を運ぶ場合は,亀ノ瀬より先は河床に露出する岩石のために船は溯れず,いったん荷を陸に揚げ,大和側の船に積み替えて大和各地に運ばれた。当川付替え後は,旧大和川の舟運は不可能となり,剣先船は新大和川に移り,大坂へは十三間堀川経由で木津川へ出る航路を取った。付替え後の旧河床には灌漑用水を通すための長瀬川・玉串川2本の井路川が掘られたが,これを利用して10石積みの小船で営業したのが井路川船と呼ばれるものであり,100隻が許可された。これらの舟運は,明治22年大阪鉄道(現国鉄関西本線)の開通に伴って衰退していった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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