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淀川
【よどがわ】


大阪平野を流れる川。府下の指定流路延長35.1km(幹川流路延長75km)。大阪の「母なる川」とされ,風土・歴史・文化を語るには大和川とともに欠くことのできない河川である。わが国有数の大河川であり,滋賀・京都・奈良・三重・兵庫・大阪の2府4県にまたがる。川名は,昭和40年施行の新河川法によれば,滋賀県大津市瀬田の琶琵(びわ)湖の流出口から河口までをいう。しかし,一般的には大阪・京都両府の境界の宇治川・木津川・桂川の3川合流点から下流の部分をいう。3川合流点から上流については,通常,滋賀県下の部分は瀬田川,京都府下の部分は宇治川と呼ばれる。近江盆地の水を集めるわが国最大の湖である琵琶湖に発し,瀬田川,そして宇治川の峡谷部につくられた天ケ瀬ダムを経て京都府宇治市付近で京都盆地に入る。京都市伏見区淀を経て大阪府・京都府の境界,大山崎の狭隘部で三重県西部・奈良県東部の水を集める木津川を左岸に,京都府下の亀岡盆地を主な上流域とする桂川を右岸にそれぞれ合わせて大阪府に入る。府下では,三島郡島本町で水無瀬(みなせ)川,高槻(たかつき)市で檜尾川・芥(あくた)川といったいずれも北摂山地に発する諸河川を右岸に合わせ,左岸では生駒山地に源を有する船橋川・穂谷川・天野川をそれぞれ枚方(ひらかた)市で合わせる。摂津市に入ると右に神崎(かんざき)川を分岐し,守口(もりぐち)市を経て大阪市に入り,大阪市都島区毛馬(けま)町3丁目において旧淀川本流である大川を分派,新淀川と呼ばれる本流は南西にまっすぐ流下し,西淀川・此花(このはな)両区の間で大阪湾に注ぐ。毛馬で分かれた旧淀川本流は,はじめ大川と呼ばれ,大坂城の北で寝屋川を合わせ,中之島東端で土佐堀川と堂島川に分かれ,西区川口2丁目付近で再び合流する。合流点付近では木津川を分かち,本流は安治川となって大阪港北部で大阪湾に注ぐ。なお「河川調書」によれば,大川・堂島川・安治川は一括して旧淀川と総称され,土佐堀川だけが別河川扱いとなっている。当川を淀川と呼ぶようになったのは江戸期に入ってからで,「五畿内志」では淀河と書き,以後,淀河あるいは淀川と記されるようになった。また,澱川(よどがわ)・澱江(でんこう)と記すこともあった。江戸期以前には近江川とか山城川とも呼ばれたが,沿岸各地でさまざまに呼ばれていたようである。「古今集」では山城の淀の辺りを詠んだ歌で淀川といい,平安末期の「扶桑略記」では山崎川,「万葉集」では取替川などと見える。さらに「日本書紀」仁徳天皇の条には大和川を南水とするのに対して当川を北の河と記しており,「古事記」は鵜河としている。淀川・大和川流域は,わが国で最も早くから開発が進められた地域の1つだが,大阪平野の歴史は治水・河川改修の歴史であったともいえる。流域一帯は,わが国の河川土木史上最も古くから河川改修の行われてきた地域であり,近世以降今日に至るまで,東の利根川水系とともに治水上の最重点地域である。流路は,古くは宇治で京都盆地に出てやがて巨椋(おぐら)池(昭和16年に干拓)に入り,その下流は,たびたび変動はあったものの,ほぼ現流路に沿って流れ,毛馬付近で河内低地を北流してきた大和川を合わせ,長柄(ながら)川(のちの中津川)となって海に入っていた。「古事記」によれば,仁徳天皇時代の淀川と大和川の合流点付近一帯は低湿地で,しばしば洪水が起きていたため,天皇は,人工の水路により南水すなわち大和川や淀川南派流の水を直ちに海に導こうとした。これが難波の堀江で,現在大坂城の北を流れる旧淀川本流の大川であるといわれている。同時に天皇は淀川(北の河)の洪水を防ぐために茨田(まつたの)堤を築いた。桓武天皇の時代になると,和気清麻呂に淀川治水を命じ,清麻呂はまず淀川流末の排水をはかるために三国川(現神崎川)を開削して分流させたが十分な効果が得られなかった。そこで清麻呂は,延暦7年,大和川を直接海に注がせるよう,天王寺付近で上町台地を開いて堀江をつくる工事を起こしたが,これも失敗に終わった。その後もたびたび洪水をみたが,根本的な対策はなされず,再び大規模な淀川治水を行ったのは豊臣秀吉であった。文禄3年,秀吉はそれまで巨椋(おぐら)池に流入していた宇治川を付替え分離するとともに,伏見から大坂に至る淀川左岸約27.8kmの文禄堤を築き,京都~大坂間を結ぶ交通路としても利用した。一方,淀川左岸の河内低地では,かつての湾入の名残である深野(ふこの)池や新開池が江戸期に入っても残っており,低湿で常に洪水に悩まされていた。なかでも柏原付近から河内低地を北西流して当川に合流していた大和川がたびたび氾濫を繰り返していた。幕府の命により,流域の治水対策をとりしきることになった河村瑞賢は,大和川下流部の淀川を改修し疏通を良くすることによって解決しようとした。瑞賢は貞享元年に淀川下流部の九条島を開削,新川を開いた。これが安治(あじ)川である。その後も中津川河口・木津川河口の浚渫等が実施されたが,大和川沿岸の洪水は減らなかった。河内今米村の庄屋川中九兵衛らによって幕府に請願されていた大和川付替えの運動は,九兵衛の子中甚兵衛らによって再び推進され,宝永元年,河内低地を経由せずに,柏原から直線的に堺まで西流する大和川の付替えが実現した。これにより当川と大和川は分離され,旧大和川沿岸の洪水は大幅に緩和され,同時に,深野池・新開池なども新田として開拓されていった。当川本流筋ではその後も,宝暦9年に正蓮寺川,明和6年に六軒家(ろつけんや)川の開削,安治川・神崎川・中津川の浚渫が行われている。明治になると政府は,オランダ人技師デレーケに治水計画を立案させたが,明治18年の有史以来といわれる大洪水を契機に当川の根本的治水対策が立てられ,明治31年から同43年にかけて,上流から河口にわたる諸改修が実施された。下流部では,旧中津川の流路を利用し,現在の本流である放水路(新淀川)が掘られ,毛馬に設けられた洗堰・閘門により旧川(現大川)に必要な平水量のみを流すことになったため,大阪市内は当川の洪水から守られることになった。その後も改修が積み重ねられて現在の淀川水系が成立した。瀬戸内海―淀川―琵琶湖を結ぶ水路は,古来重要な交通路であった。古代,大和に都があったころから,瀬戸内海方面からは淀川をさかのぼり,山崎の合流点で木津川に入り,大和へ達していた。平安京の時代になると,京と直接に連絡する交通路淀川は重要性をさらに増していった。中世には当川沿岸の各所に関が設けられ,通行する船から関銭を徴収した。近世に入って大坂が発展すると,単に交通のみならず経済の大動脈としての役割を担うようになった。三十石船,豊臣秀吉の伏見城築城以来の淀二十石船などの過書船による舟運の発展がそれである。全盛期には伏見船も加えて全部で約1,400艘の船が当川本支流を運航した。客船の三十石船は,京都伏見船場と大坂八軒家の船場の間を上下したが,途中の枚方(ひらかた)浦ではこれらの客船相手に「くらわんか舟」と呼ばれる物売り舟が営業した。明治になると,外輪によって推進する川蒸気船が出現し,三十石船等は凋落していく。しかし川蒸気船も,明治9年,淀川沿いに鉄道が開通すると衰退し,淀川の交通路としての役割は終わる。代わって当川の新しい利用は明治以降の大阪を中心とする沿岸の工業化・都市化の進展によって始まった。従来からの農業用水に加え,飲料水・発電用水・工業用水の水源としての役割が重視され,昭和18年・同26年には河水統制第1期・2期事業が行われた。これは,水源の琵琶湖の水位を下げ下流の水需要の増大に対応するというものであった。さらに昭和30年以降の高度経済成長に伴う水需要の増大をまかなうために,水資源開発公団によって,高山ダム(木津川水系)をはじめとする上流部のダム建設を含む一連の利水事業が実施された。一方当川は,第2次大戦後も昭和29年の台風13号などによる大出水に見舞われ,淀川水系全般にわたる治水対策が必要となり,淀川水系工事実施基本計画により,上流に利水を兼ねた一連のダムが建設された。その後さらに淀川水系の安全度の向上が必要となり,昭和46年に淀川水系工事実施基本計画は大幅改訂され,200年に一度の出水にも耐えるべく低水路の屈曲の是正・拡幅,堤防・護岸の増強が必要となった。下流部では,長柄橋上流に淀川大堰が建設され,毛馬洗堰・閘門も改築された。また同時に堤内の高水敷を利用した国営淀川河川公園の整備が計画されている。しかし,こうした一連の利水・治水事業は,天然記念物イタセンパラの生息するワンドと呼ばれる河岸の湾入部をはじめ,流路沿いに残された自然の保護との兼合いが大きな課題とされている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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