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神崎川
【かんざきがわ】


尼崎市の東端を流れる川。流長18.592km(県内流長2,450m)。大阪府摂津市一津屋で淀川から分かれ,西流した後,吹田市高浜町付近で安威川と合流,蛇行しながら南西に流れ,尼崎市神崎付近で猪名川と合流したあとは,S字状に蛇行しつつ左門殿川,中島川,西島川などに分流して大阪湾に注ぐ。三国川とも呼ばれ,「続日本紀」に「延暦四年正月庚戌,遣使掘摂津国神下,梓江,鰺生野通于三国河」とあり,一般的には延暦4年に開削されたと解釈されているが異論もある。この開削により,淀川と瀬戸内海との結節点として神崎川河口部の港は繁栄するが,上流からの土砂によって河口部には新しい土地が生じ,それに伴って港の機能は徐々に下流へと推移した。「摂津国風土記」逸文,「住吉大社神代記」に神前の名が出てくるが,これは猪名川が今よりも西を流れていた時の河口部左岸にあったものと考えられている。流路が変わり,淀川と結ばれたあとは京と西国を結ぶ交通の要衝として栄えた。大江匡房の「遊女記」によって淀川との分岐点に位置する江口とともに神崎の繁栄ぶりを知ることができる。これより下流の河尻は,「五泊」の発着点として位置づけられ,平安期以降繁栄した。紀貫之の「土佐日記」,平信範の「兵範記」には地方官吏が河尻を経由して赴任,帰京する様子が描かれている。その後の土地進展に伴い,大物・杭瀬,さらに尼崎が港湾機能を持つようになった。河口部の三角州は埋立て,干拓によって新開地となるに伴って現在の流路が徐々に形成された。明治期以降,沿岸は尼崎市のなかでも早くから近代工業が進出した地域である。その一方で水質汚濁・地盤沈下の問題は大正期より生じ,大正末期には神崎川に海水が逆流するようになったため,尼崎市は昭和3年4月大阪市東淀川区柴島(くにじま)の淀川より得る上水道を完成させた。第2次大戦後,尼崎市は地盤沈下対策として工業用水を地下水から河川水に移行することとし,大阪市東淀川区北江口町の神崎川取水点より送水する工業用水を建設,昭和37年より利用を始めた。現在も沿岸は製紙・薬品・金属などの工場が並び,工場排水の規制,下水処理場の整備などを行って河川の浄化に努めている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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