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五箇荘
【ごかのしょう】


旧国名:播磨

(中世)鎌倉期~室町期に見える広域地名。播磨国のうち。加古川市・高砂市・明石市・加古郡播磨町・加古郡稲美町にまたがる地域。「吾妻鏡」文治2年6月9日条に播磨国武士押領所々事として「五ケ庄」が見え,同書の文治4年6月4日条の後白河法皇院宣にも播磨国(梶原)景時知行所々事として見える。平家没官領の五箇荘は,景時失脚後,正治2年正月25日付の源頼家下文に小山朝政が「播磨国五箇庄」の地頭職を補任している(松平基則所蔵文書/鎌遺1103)。また,「六波羅守護次第」兼時の条に,六波羅探題に就職した北条兼時が「弘安七年十二月二日,自播州〈元守護也〉賀古河入于六波羅」とあり,この当時の播磨守護所は賀古河に置かれ(増訂鎌倉幕府守護制度の研究),五箇荘が守護の経済的基盤となっていたと思われる。「播磨国五箇庄内野口村」は,建武5年5月4日付の赤松円心給主職宛行状案に見え,三津寺四郎左衛門入道円浄にその給主職が宛行われた(井尻助雄文書/島本町史資料編)。観応元年12月5日付の足利尊氏下文案に「播磨国五箇荘内宿村〈下司公文政所名〉,木村,大津村」とあり,赤松円心の没後,播磨守護領五箇荘が子息によって分割相続され,嫡子赤松美作権守範資が賀古荘内の宿村・木村・大津村各村を知行,足利尊氏がこれを安堵している(森川文書/大日料)。応永16年9月4日付の足利義持御教書に赤松頼則の遺領「播磨国五ケ庄野口・□□・福富・河原村」が見え,室町幕府将軍義持が赤松次郎満則に安堵している(富田仙助文書/東京大学史料編纂所影写本)。赤松伊豆守満則は,赤松円心の次男筑前守貞範を祖とする春日部家の当主である。その知行地である北条郷内の野口・□□・福富・河原各村を貞範が分割相続したものと考えられる。「蔭涼軒日録」長享2年8月3日条に「梅香院領播州五箇庄内賀原(河原)村。年貢弐拾石。前出羽守源頼則寄進」とあり,河原村には赤松頼則の寄進した梅香院領があった。年不詳(戦国期)閏11月27日付則定書状にも,赤松伊豆守の所領「賀原(河原)村」が見え(富田仙助文書/東京大学史料編纂所影写本),河原村が戦国期まで春日部家に伝領されていることがわかる。観応2年10月15日付の四条姫宮御譲状に「はりまの国五ケ庄の内ハやしさき(林崎)のむら」とあり(大徳寺文書/大日古),明石郡林崎村までが五箇荘域に含まれている。平安末期の五箇荘の荘域は,加古郡賀古荘(北条郷・賀古新荘を含む)・住吉大社神社領(阿閇(あえ)・高砂・長田および明石郡の住吉領も含む)・印南郡印南荘(平・都染・益田)・大国荘・魚崎荘(伊保荘・平津荘)で,加古郡・印南郡・明石郡の3郡にわたる広い地域であったと考えられる。しかし,守護所が移ったのちも五箇荘の地名が生き続けたのは,かつての守護領として用いることの意義が大きく重要であったからであろう。正和4年6月21日付の道常(安東平内右衛門入道)寄進状には「□(奉)寄 円覚寺,播磨国五筒(箇)庄内䖣(蛸)草北村事」とある(円覚寺文書/神奈川県史資料編)。蛸草は賀古新荘内に所在しているが,「稲美町史」は「荘園志料」を引用して加古郡稲美町付近が五箇荘としている。これは,他の地域が個別の荘園名で呼ばれたからである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7158353