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天ノ香久山
【あまのかぐやま】


畝傍(うねび)山・耳成山とともに大和三山の1つ。橿原(かしはら)市南浦町と戒外(かいげ)町にまたがり,JR桜井線香久山駅南1.5kmに位置する山。標高152m。竜門山地の末端部にあたり,周囲の岩石より硬い斑糲岩の部分が浸食から取り残されて高くなった残丘で,ゆるやかな山容をなす。古来,和歌に多く詠まれ,後鳥羽院の「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく」と持統天皇の「春すぎて夏来たるらし白たへの衣乾したり天の香具山」との2首は有名。「カグヤマ」の用字は「万葉集」では「香具山」「香山」「芳来山」「香来山」「高山」と種々であるが,記紀などの史書類ではおおむね「香山」と表記。「香久山」と表記されるのは中世以降である。奈良盆地の南部で耳成山・畝傍山とともに鼎立して浮かぶ三山は,記紀・万葉などにしばしば登場するが,中でも香久山だけが「天の」と冠せられ,特別視されていたのは香久山が天から降ってきたという伝承があることによる(伊予国風土記逸文)。そのような伝承が生じたのは,香久山が大和朝廷の行う神事にとって欠くことのできない役割を担っていたからであろう。有名な天の岩戸の神話では「古事記」上巻に「天の香山の真男鹿の肩」「天の香山の天の波波迦」「天の香山の五百津真賢木」「天の香山の天の日影」「天の香山の小竹葉」をもって神事を執行したとあり,神武即位前紀戊午年9月条に天香山の土をもって天平瓮・厳瓮を作って天神地祇を祀ったとし,同崇神紀10年9月壬子条に武埴安彦の妻吾田媛が密かに香久山の土を採り,これを「倭国の物実」と言い大和国全体を象徴したとする。これらの記述は令制での天神地祇を祀る月次祭・祈年祭につながるものであったろう。舒明天皇が香久山に登って国見をしたことも聖なる山の故とされる。持統天皇8年には香久山の西の藤原の地に中ツ道推定線を東京極として京が造営され,飛鳥浄御原宮から遷居した。「万葉集」の「藤原宮の御井の歌」(52)によれば三山は藤原宮の東・西・北を囲むように位置しており,香久山は「大和の青香具山は日の経の大御門に青山と繁さび立てり」と歌われている。「万葉集」の歌からは,さらに香久山の西北に埴安(はにやす)池があり,大宮人が船遊びをしたこと,高市皇子の香来山宮もその付近にあったこと,大津皇子・穂積皇子の宮も香久山周辺にあったことがうかがえる。一方,香久山周辺にはいくつかの神社が鎮座している。「延喜式」に記載される天香山坐櫛真命神社は,前記の瓮を作るための土を採取した場所である「天香山社」(神武紀)に比定され,天平2年の大倭国正税帳には「久志麻知神」と見える。卜占にかかわる神で,天平神護元年に封1戸を充てられ,貞観元年従五位下に昇叙された。このほか,「延喜式」の畝尾都多本神社は「哭沢の神社」(万葉集202)に当たると考えられ,同じく「延喜式」の畝尾坐健埴安神社も崇神紀の武埴安彦や埴安池の存在からみて香久山付近に祀られたとみられる。現在香久山の西麓から北麓にかけてこれらと同名の神社が鎮座している。昭和60年から同61年にかけて香久山西北麓一帯で約1万5,000m(^2)の大規模な発掘調査が行われた。藤原京左京6条3坊のほぼ東半分に相当する地域で,調査地北方に7世紀中葉にさかのぼる寺院跡の存在が推定できる。京の遺構としては,東3坊坊間路,6条条間路のほか,坊の中央に正殿があり,1坊分を占地したとみられる整然とした配置の建物群がある。北部の倉庫風の建物,南部の官衙風の建物の間に物資運搬用の運河とみられる東西大溝がある。中でも注目すべきは,大溝とその近くの奈良期の井戸から木簡や「香山」と墨書された土器が多数出土していることで,木簡の中には霊亀3年の稲の収納に関する内容を記したものがあり,養老4・7年には香久山付近に「香山正倉」があったとする大倭国正税帳の記述を裏づける。9世紀後半には「三代実録」などに「香山(こうぜん)寺」が霊験ある山寺の1つとして散見する。これは奈良市東郊の春日山中に奈良期に造られた香山寺とも,香久山にあったものとも判然としないが,文献の記載や当時の両所の状況からすれば,後者の可能性が強い。同寺は鎌倉期には奈良の西大寺の影響下にあり,永仁6年4月10日に西大寺やその末寺30か寺とともに関東将軍家御祈祷所となっている(帝王編年記)。この記事では寺名が三学院とあり,十市郡天香山と注記している。室町期には「香久山寺,在高市郡,亦曰興善寺三学院,僧房八宇」とあり,興福寺の末寺となっているが(興福寺官務牒疏),「興善寺」は「香山寺」の同音異字であろう。またこの時期には興福寺六方末寺の丑寅方となっていることが知られ,戦国争乱の一勢力ともなった。江戸期には香久山興善寺文殊院とも称され,その後身の寺が香久山南麓の戒外に現存している。香久山は頂上付近を天指(あまざし)山とも称され,頂上に竜王社を祀っているので竜王山とも呼ばれたが,総名は香久山であった。香久山は江戸期の地誌類にしばしば記され,名所旧跡を尋ねる文人墨客の紀行文にも登場する。




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「角川日本地名大辞典」
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