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磐余池
【いわれのいけ】


橿原(かしはら)市池尻町から桜井市池ノ内町にわたって存在した池。磐余市磯池・市師池とも称され,履中天皇や本牟智和気王が舟遊びをしたと伝承される。履中紀2年10月条に「磐余池」を作るとあり,同3年11月辛未条には履中天皇が両枝船を「磐余市磯池」に浮かべ,皇妃と分ち乗りて遊宴したと見える。両者は同一異称と推定され,磐余市磯池が正式の名称であろう。さらに,垂仁天皇は尾張の相津にある二俣榲(すぎ)を二俣小舟に作り,「倭の市師池」と軽池に浮かべて,本牟智和気王と舟遊びをしたとある(古事記垂仁段)。二俣小舟は「書紀」の両枝船と同様の構造と推定され,池の名称も共通する。倭の市師池のヤマトとは,この場合,のちの大和一国を示すのではなく,磐余・初瀬・磯城を含む三輪山を中心とする一帯の地名であったと考えられる。継体天皇の子,勾大兄皇子に対して仁賢天皇の娘,春日皇女が詠んだ歌にも「磐余の池」が見える(継体紀7年9月条)。大津皇子も謀反の科により刑死する時,池の陂(つつみ)で鳴く鴨を詠んでいる(万葉集416)。なお,「万葉集」に見える「池の辺の小槻」(1276)は用明天皇池辺双槻の所在地を示し,「池神」(3831)と同様,当池を詠んだと考えられる。「和名抄」に見える十市郡池上郷の郷名も磐余池にちなんだものか。中世後期までは池の一部が残存していたらしいが,現存しない。池は米川支流の戒下川をせき止めて築堤され,東池尻町の字島井にはかつての堤の痕跡があり,稚桜神社と御厨子神社の所在する2丘陵の間250mに堤が築かれたらしい。なお,池ノ内町の稚桜神社東北方の水田からは巨大な木樋が発掘されている(桜井市史上)。周辺には池田山・中島・島井・樋ノ口・樋詰・池尻などの小字が残る(同前・大和地名大辞典)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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