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葛城
【かずらき】


旧国名:大和

(古代)大和期から見える地名。カツラキ・カツラギとも発音し,葛木とも書く。狭義には金剛山地の東麓を中心とする地域だが,現在の北葛城郡・大和高田市・御所(ごせ)市にわたる地域の汎称でもあった。葛城は葛の生えた土地のことか(御所市史)。高尾張と同所か。①葛城邑。神武天皇東征伝承に,高尾張邑(葛城邑とも見える)には赤銅の八十梟帥がいたと見える(神武即位前紀戊午年9月戊辰条)。また高尾張邑には身長が低く手足が長い侏儒と似た土蜘蛛が居住し,皇軍は葛の網を結き,襲い殺したので,その邑を「葛城」と称したとある(神武即位前紀己未年2月辛亥条)。高尾張邑の土蜘蛛を誅殺したのち,その邑を葛城と改称したとするが,地名に付会して奈良期までに作られた説話と考えられる。②葛城国。神武天皇による平定行賞の際,剣根という者が「葛城国造」に任命されている(神武紀2年2月乙巳条)。「旧事紀」国造本紀にも橿原朝御世,剣根命を「葛城国造」に任じたとある。伝承上では設置時期が最も早い国造の1つである。葛城国造は高魂命の5世孫剣根命を始祖とする神別の氏。旧姓は直で,天武天皇12年に連姓を賜り(天武紀12年9月丁未条),同14年には忌寸の姓を賜っている(同前14年6月甲午条)。「姓氏録」には「葛木忌寸」(大和国神別),「葛木直」(河内国神別),「葛城直」(摂津国未定雑姓)などが見える。なお葛城襲津彦を祖とする葛城臣との関係は明らかではないが,「紀氏家牒」(無窮会神習文庫本玉簏73)によると襲津彦の母は葛城国造荒田彦の女葛比売とある。葛城臣の没落後は葛城直が葛城県の管理者になったと考えられる。③葛城。綏靖天皇の宮は「葛城の高岡宮」(古事記綏靖段)・「葛城」の「高丘宮」(綏靖紀元年正月己卯条)と伝承される。孝昭・孝安天皇の宮も「葛城の掖上宮」(古事記孝昭段),「葛城の室の秋津島宮」(同前孝安段)と示されている。また両天皇の陵も広義の葛城に所在したように記される。これらの初期の天皇陵や宮が葛城地方に措定された経緯については,当地にも勢力を拡大した蘇我氏(推古紀32年10月癸卯条・皇極紀元年是歳条)による最初の国史編纂事業(天皇記・国記)にかかわってのこととする説がある。なお広義の葛城には飯豊女王の「葛城の忍海の高木の角刺宮」(古事記清寧段)があり,「葛城埴口丘陵」(顕宗即位前紀条)に葬られたという。ところで葛城には武内宿禰の第8子「葛城の長江の曽都毘古」(古事記孝元段)を始祖とする皇別の葛城臣がいる。ただし,氏の称が確認できるのは「葛城臣烏那羅」(崇峻即位前紀条),または伊予道後温泉碑(伊予国風土記逸文)に見える「葛城臣」が初見である。氏と姓が成立したのは5世紀末頃と考えられており,葛城ソツヒコの「葛城」は氏名ではなく地名とするのが自然である。ソツヒコは4世紀末から5世紀初めにかけて実在した人物で,朝鮮との外交関係に活躍した大和政権の将軍とする説が有力である。彼は神功皇后摂政5年に新羅へ派遣され,新羅人を伴い帰朝,桑原・佐糜・高宮・忍海(おしみ)の4邑に居住させたという(神功紀5年3月己酉条)。またソツヒコの娘,磐之媛は仁徳天皇皇后となっていたが,天皇が八田若郎女を宮中に入れたことに立腹し,難波の宮に帰らず山背川を遡って筒木に至り,崩ずるまでこの地に留まった。その間に奈良山あたりから,遥か西南にあたる葛城山麓の故郷を望んで,「つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり」と詠んでいる(古事記仁徳段・仁徳紀30年9月乙丑条)。なお仁徳天皇が皇后磐之媛のために設定した「葛城部」(古事記仁徳段・仁徳紀7年8月丁丑条)は,最も早い時期の御名代の部になるが,トモに関する史料は残っていない。天平18年9月調絁墨書銘(正倉院御物/寧遺下)に「伊予国越智郡石井郷戸主葛木部竜調絁〈六丈〉」と見え,「和名抄」には備前国赤坂郡と肥前国三根郡にそれぞれ「葛木郷」がある。ソツヒコの娘,磐之媛が仁徳天皇の皇后になって以来この氏の女子は大王家と婚姻を重ね,5世紀代の外戚として栄えた。履中天皇妃の黒媛(履中紀元年7月壬子条・古事記履中段),市辺押磐皇子妃で顕宗・仁賢天皇母の媛(顕宗即位前紀),雄略天皇妃で清寧天皇母の韓媛(雄略紀元年三月是月条・清寧即位前紀・古事記応神段)などである。允恭朝にはソツヒコの孫,玉田宿禰が反正天皇の殯に奉仕せず「葛城」に引き籠り,允恭天皇の召喚に武装して出廷し,それが露見すると家に逃げ隠れて天皇の軍に殺されたとある(允恭紀5年7月己丑条)。さらに安康天皇を殺した眉輪王が玉田宿禰の子,円大臣の家に逃げ入り大臣の家は大泊瀬皇子(雄略天皇)の軍に包囲され,大臣は眉輪王らとともに焼き殺されたという(雄略即位前紀)。允恭朝に葛城臣と大王家との間に対立が生じ,雄略朝に至って皇位の継承をめぐって対立が決定的となり,以後葛城臣は没落していく。ソツヒコの後裔を称する氏族には,的臣・玉手朝臣・生江臣・阿支奈臣・小家連・塩屋連・下神・葛城朝臣らがいる(古事記孝元段・紀氏家牒・越中石黒系図・姓氏録など)。このうち「姓氏録」左京皇別下に見える「葛城朝臣」は忍海原連から朝野宿禰を経たのちの改氏姓であり,渡来系氏族であったと考えられる(天武紀10年4月庚戌条・続紀延暦10年正月己巳条)。また地名を冠する人物としては葛城之高千那毘売(古事記孝元段),葛城之野伊呂売(同前応神段)がおり,欽明天皇皇子(欽明紀2年3月条),敏達天皇皇子(古事記敏達段),聖徳太子の孫(聖徳太子平氏伝雑勘文下3所引上宮記逸文),天智天皇(舒明紀2年正月戊寅条),橘諸兄(続紀天平元年3月甲午条)も葛城皇子または葛城王を称する。用明天皇皇女で伊勢斎宮の酢香手姫皇女は母が葛城直の娘であったことから,晩年は「葛城」に退き,当地で薨じたという(用明即位前紀・用明紀元年正月壬子条)。皇極朝には蘇我蝦夷が己の祖廟を「葛城の高宮」に立て,八佾の舞を行い,歌を作ったとある(皇極紀元年是歳条)。なお「万葉集」に「葛城の高間」(1337)が詠まれ,「霊異記」に「葛木の高宮寺」(上4)が見える。大化改新以後,天武朝までに,当地域は葛木上評(霊異記上28)と葛木下評(天武紀13年是歳条)に分割され(忍海評の存在は不明),大宝令制以後は葛上・葛下・忍海の3郡になったと考えられる。現在の御所市楢原・伏見・朝妻には字「葛城」が残る(御所市史)。「延喜式」神名上によると,葛上郡17座のうちに葛木御歳神社・葛木坐一言主神社・葛木大重神社,葛下郡18座のうちに葛木倭文坐天羽雷命神社・葛木御県神社・葛木二上神社,忍海郡3座にも葛木坐火雷神社二座が見える。特に「葛城の一言主大神」は雄略天皇と対決したと伝えられる(古事記雄略段)。出雲国造神賀詞(延喜式祝詞)には「葛木の鴨の甘奈備」が見え,「高鴨阿治須岐託彦根命神社四座」(同前神名上葛上郡)に比定される。以上のことから北は二上山(現当麻(たいま)町染野)から南は高鴨神社(現御所市鴨神)までが広義の葛城と考えられる。ちなみに「万葉集」にも「葛城の二上山」(165・166題詞)とある。寺院としては平城遷都に伴い奈良へ移建された「葛木(城)(尼)寺」がある(続紀宝亀11年正月庚辰条,霊異記中23,天平勝宝8年6月12日孝謙天皇東大寺宮宅田園施入勅/大日古編年4など)。当初の建立地については現在の御所市朝妻(大和志)や橿原(かしはら)市和田町の和田廃寺とする説などがあり確定していない(上宮聖徳法王帝説・扶桑略記・続紀光仁即位前紀など)。④葛城県。大和六県の1つ。推古天皇32年蘇我馬子は阿曇連と阿倍臣を遣わして推古天皇に奏して,葛城県は本居であるために,賜って封県にしようとしたが許されなかったとある(推古紀32年10月癸卯条)。葛城氏が代々当地を本拠とし,蘇我氏もまた同族の故をもって馬子はこの地を本居と主張したのである。皇極天皇元年には馬子の子,蝦夷が「葛城の高宮」に己が祖廟を立てたとされ(皇極紀元年是歳条),葛城に蘇我氏が進出していたことが知られる。葛城県の実体は明らかではないが,葛城臣が滅亡する直前に,円大臣が「宅」を贖罪に献じようとした話は,同氏の旧経営地が県の一部に編入されたと考えられるので参考となる。円大臣が献じようとしたのは「葛城の宅七区」(雄略即位前紀),「五つ処の屯宅」(古事記安康段)であり,後者には「謂はゆる五村の屯宅は,今の葛城の五村の苑人なり」と注記されている。「倭国の六県」(孝徳紀大化元年8月庚子条)からは甘菜・辛菜を天皇の御膳に献じることになっており(延喜式祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞),「葛城の五村の苑人」がその任務を果たしていたらしい(令義解職員令園池司)。「紀氏家牒」(無窮会神習文庫本玉簏73)によれば,葛城県は葛城里・玉手里・博多里・賀茂里・室里の五処里と長柄里・豊浦里の合計7か里から構成されていたとある。「宅七区」や「五つ処の屯宅」との関係が推定されるが,詳細は不明である。また広瀬大忌祭・竜田風神祭には当県から刀禰が参集することになっていた(延喜式祝詞広瀬大忌祭・竜田風神祭)。「延喜式」神名上には葛下郡18座の1つに「葛木御県神社」が見える。県の範囲は不明である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7166130