100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

猿沢池
【さるさわのいけ】


奈良市登大路町にある興福寺の放生池。池の周囲約300m。「興福寺流記」所引の「宝字記」には「南花薗四坊・在池一堤」と記す。興福寺本来の寺地である左京3条7坊の16町とは別に,三条大路を挟んで,その南の同4条7坊の北4町に興福寺の花園があり,仏に供える花が栽培されていたこと,花園の中に池が存在していたことなどが判明する。同書所引の「天平記」によれば,「佐努作波池」と見え,すでに天平期には興福寺の門前に当池が存在したことは明らかである。猿沢はこの佐努作波の音を写したものであろう。また,平城京の東三坊大路側溝より出土した平安初期頃の木簡にも,「山階寺南花薗池」と見える。古来有名であったために,池にまつわる多くの伝承を有する。特に「大和物語」や「枕草子」などに引かれる采女の話は有名である。平城天皇(一説に文武天皇)の寵愛を受けた采女が,悲恋のゆえに猿沢池に身を投げたという物語である。「拾遺集」には柿本人麻呂の歌として,「わぎもこが寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしき」の1首が見える。「枕草子」第38段にも「猿沢の池は,采女の身投げたるをきこしめして,行幸などありけんこそ,いみじうめでたけれ。ねくたれ髪を,と人丸がよみけん程など思ふに,いふもおろかなり」とある。この伝承に基づいて,池の北西の傍には采女神社が祀られている。当社は弘仁年間に藤原冬嗣の8男権中納言藤原良世が建立し,興南院権僧正快祐が勧請したと伝えられる(興福寺濫觴記所引諸堂建立之次第)。神社の東南には,采女が衣をかけて入水したと伝える衣掛柳もある。また,中世まで池の南西に猿塚があり,興福寺で修行中の弘法大師に日々菓子を供えた猿の墓と伝えられる。さらに,池には竜神が住むとも信じられ,奈良町中の人々にとって欠くことのできない池であった。室町期には,足利義満をはじめとして多くの武士や貴族・僧俗が春日社参と南都巡礼に下向した。当時すでに,南都八景の1つとして猿沢池の月が東大寺の鐘・春日野の鹿などとともに見えている(蔭涼軒日録)。飛鳥井雅幸も「のとかなる波にそこほるさるさはの池より遠く月はすむとも」の歌を詠んでいる。今日においても,奈良観光の一翼をになう名勝であり,放生会などとともに,毎年行われる9月の中秋の名月の夕の采女祭りは特に有名である。春日山にのぼる月を背に,竜頭船を浮かべて船楽を奏するさまは見事である。「澄まず濁らず,出ず入らず,蛙はわかず藻は生えず,魚が七分に水三分」の俗謡も残されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7167156