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埴安池
【はにやすのいけ】


飛鳥期に見える池。「万葉集」巻3の「鴨君足人の香久山の歌」(257~259)によると,藤原宮の官人たちが船遊びを楽しむ池であったらしい。同書の舒明天皇の「香久山に登りて国見せしときの御製」の歌に見える「海原」は埴安池を指すとする説がある。これが正しければ,埴安池は7世紀前半には存在したことになるが,定かではない。現在は姿を消し,その場所すら明らかでない。「大和志」「大和名所図会」などは,天ノ香久山の南麓,現在の橿原(かしはら)市南浦町にある鏡池をこれにあてる。また,香久山の北麓の谷あいに小池があり,埴安池の跡と伝えているが,確証はなく,いずれの説も成立し難い。「万葉集」巻1の「藤原宮の御井の歌」(52)は,埴安池の堤に立って藤原宮を望んだ情景を香久山は東門の方に,畝傍山は西門の方に,耳成山は北門の方に,吉野の山は南門のはるか南に,それぞれ美しく立っていると歌い,埴安池は藤原宮の近くで,香久山と藤原宮との中間にあったと推定できる。また,高市皇子の「香久山宮」は「埴安の御門」ともいい(199),埴安池は香久山宮の近くにあったことが知られる。藤原宮跡の東方,橿原市木之本町にある都多本神社(哭沢神社)の境内地の東北方で,香久山西北麓との間には,周辺より2mほど急に低くなる特色ある地形が認められる。この低地形は都多本神社の東北から下八釣町の集落の東に沿って北へと延び,西は藤原宮東辺地域の微高地で,東は香久山から北へ続く微高地で画され,幅300mほどで南北に長く続く。藤原宮跡と香久山西北麓との間にあるこのような特色ある地形は埴安池跡と関連するものであろう。谷口に堤を築けば,低地部に容易に湛水し,池とすることが可能である。一帯は深い泥田で,厚い泥土層の堆積を確認している。また,ここには土安(はにやす)神社があり,これは式内社畝尾坐建土安神社にあてられている。また,この低地形の中央東部を中ノ川が南北に貫流している。中ノ川は飛鳥一帯の基幹用水路である木葉堰からの中水にあたり,藤原京東三坊大路の位置を直線的に北流する。付近には堀川の字名を残す。当時は人工的な堀川として機能していたものと考えられる。それは埴安池とも密接な関係にあり,埴安池を水源とした可能性が高い。中ノ川は斉明天皇が香久山の西から石上山にかけて掘削した狂心の渠(たぶれごころのみぞ)跡の有力候補でもある。狂心の渠と埴安池との関係の解明は今後の重要な課題である。なお,南浦町出屋敷集落の北方では,藤原京の四条条間路,四条大路,五条条間路を検出しており,埴安池の東西幅は300mを超えないことがわかっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7168897