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広瀬
【ひろせ】


旧国名:大和

(古代)大和期から見える地名。広背・広湍とも書く。西は馬見丘陵の東半部,東は曽我川を堺とし,北は大和川に囲まれた地域。広瀬の名は渡り瀬の幅が広いことに由来する。①広瀬。敏達天皇14年天皇は病重くして大殿で崩じたが,この時殯宮を「広瀬」に建てたとある(敏達記14年8月己亥条)。この大殿は,百済大井宮(現広陵町百済付近か)と推定される(敏達紀元年4月是月条)。また蘇我馬子らの軍に敗れた物部守屋の軍勢はことごとく皁依を着て,「広瀬の勾原」に狩をする真似をして散り散りに逃げたという(崇峻即位前紀)。天武天皇4年小錦中間人連大蓋・大山中曽禰連韓犬を「広瀬の河曲」に派遣して,大忌神を祀らしめ,以来4月と7月に竜田の風神とともに祀られることになった(天武紀5年4月辛丑条・7月壬午条など)。天武天皇10年には「広瀬野」に行宮を造ったが,「然るに車駕,遂に幸さず」(天武紀10年10月是月条),同13年になってようやく「広瀬」への行幸が実現している(天武紀13年7月癸丑条)。「大和志」はこの行宮を現在の広陵町大野付近に比定する。「万葉集」巻7に「広瀬川袖つくばかり浅きをや心深めてわが思へるらむ」(1381)と詠まれる。また聖武朝に三位粟田朝臣の娘が「広瀬の家」に居したと伝承される(今昔物語16‐14)。現在の河合町川合を中心とする地域で,河合町・広陵町一帯を総称する地名。「広瀬の河曲」に鎮座し,天武朝において官社的扱いをされた大忌神は別名を広瀬河合神とも称し,「延喜式」神名上の広瀬郡5座のうちに「広瀬坐和加宇乃売命神社」が見える。神祇令には孟夏に大忌祭と風神祭を行うとあり,義解によれば広瀬・竜田の二祭であるとする(令集解神祇令天神地祇条)。大忌祭は山谷の水を変じて甘水となし,苗稼を浸潤して五穀を成熟させる祭とされる(同前)。天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)山辺郡条には,「広湍川合神戸」の稲10束・租10束,合計20束とあり,大同元年には神封2戸が「広瀬川合神」に与えられている(新抄格勅符抄)。山辺郡に広瀬川合神の神封が属している理由については,広瀬神社の神戸だけが山辺郡にあったためと考える説や,流路の変動により郡界あるいは神社・神戸が移動したのだとする説などがある。「延喜式」四時祭上によれば,大忌祭は広瀬社において4月と7月に行われ,王臣の五位以上,神祇官の六位以下の官人各1名が使者とされ,それに卜部各1人,神部各2人が従い,国司次官以上が専当行事とされた。諸郡からの贄が2荷供進され,広瀬大忌祭の祝詞によると大和の山口神14座と御県神6座も共祭されている。宝亀9年光仁天皇は特に詔して,風雨調和・秋稼豊稔を祈るため参議藤原是公・肥後守是人を広瀬・竜田2社に派遣したとあり(続紀宝亀9年6月辛丑条),貞観元年には「広瀬神」に対し正三位が与えられるなど奉幣・神階授与の例は多く見られる(三代実録貞観元年正月27日条)。一方,天平19年3月7日常疏写納并櫃乗次第帳(正倉院文書/大日古編年9)の「間本借置第六櫃」の項に「一切経要集卅一巻〈広瀬寺〉」とある。延久2年の雑役免帳によれば「広湍寺田四町六十歩」は16条3・4里,17条3・4里に存したとあり,これから広瀬寺は現在の広陵町寺戸付近に比定される(条里復原図)。②広瀬村。天平勝宝2年2月24日官奴司解(東南院文書/寧遺下)に,「広瀬村常奴三人」「広瀬村常婢一人」とある。官奴司が東大寺に官奴婢を施入するため200人を選定した中に見えるものである。当村に居住した常奴婢は,安閑天皇の勾金橋宮・敏達天皇の百済大井宮・舒明天皇の百済宮・天武天皇の広瀬野行宮・彦人大兄皇子の水派宮(城上宮)など周辺の王宮に奉仕するため,奈良期以前にその前身が設定されたと推定される。藤原宮からは「春日」や「飽浪」の地名が記された木簡と並んで「広背」と墨書されたものも出土している(藤原宮木簡2解説No787・800~802・849)。これらは天平勝宝2年の官奴司解に常奴婢居住地として書かれている春日村・飽浪村・広瀬村を示すと考えられる。また天平宝字4年12月30日造法華寺金堂所解(正倉院文書/寧遺中)にも,「六十文自広瀬村買運雑菜駄三匹賃〈匹別廿文〉」とある。現在の広陵町広瀬付近に比定できる。③広瀬郷。年欠の勘籍歴名(正倉院丹裹古文書/寧遺中)に,「栗前広虫年卅〈大倭国広湍郡広湍郷戸主栗前呂戸口〉」とある。「和名抄」には見えない。現在の広陵町広瀬付近か。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7169168