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平群山
【へぐりやま】


大和期~平安期に見える山名。倭建命は能煩野(のちの伊勢国鈴鹿郡)で倭国を偲び,「畳薦平群の山の熊白檮が葉」と詠んでいる(古事記景行段)。日向国で詠んだとも伝承する(景行紀17年3月己酉)。本来は平群の山麓で歌われた長寿を祈る民謡か。また,雄略天皇は河内の日下に住む大后若日下部王の許に行幸した帰途,日下の山上で「平群の山」を詠んでいる(古事記雄略段)。さらに,「万葉集」巻16の乞食者の歌(3885)は,平群山の薬狩で捕らえられた鹿が,大王に一身を贄としてささげることを歌ったもので,「八重畳 平群の山に 四月と 五月との間に 薬狩仕ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟が本に 梓弓 八つ手挟み ひめ鏑 八つ手挟み鹿待つと 我が居る時に さ雄鹿の 来立ち嘆かく」とある。元来は平群山での薬狩に奉仕した平群氏を中心とする人々の服属歌謡と考えられる。これらの歌によると,平群山には橿や櫟が繁茂していた。平安期に至り,延暦16年には霖雨による山崩れで人家が埋もれたため,陰陽少属菅原朝臣世道と陰陽博士中臣志斐連国守の2人を派遣し,「大和国平群山」と河内国高安山の二山を鎮祭させている(類史10神祇雑祭延暦16年7月丙戌)。なお,「平群の山寺」に練行の沙弥尼が居住し,四恩のために像を描き,供養の後,寺に安置したと伝承される(霊異記上35・今昔物語巻12第17)。山寺の所在地は不明。平群山とは矢田丘陵を称したものか。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7169320