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大和川
【やまとがわ】


大和高原に源を発し,奈良盆地の諸河川を合わせ西流,大阪市と堺市の境界となり大阪湾に注ぐ。桜井市小夫より河口まで流長67.0km,流域面積1,069.1km(^2)。1級河川。大和川本流のうち,佐保川との合流点までを初瀬川ともいう。最上流部は標高500mの高原面に達し,天理市福住・都祁(つげ)村藺生付近で北流する布目川最上流部と不明瞭な分水界で接している。大和高原南西部を屈曲の激しいV字谷となって南下し,桜井市初瀬より西南西方向の構造谷に沿って西流,三輪山南方で奈良盆地東南隅に出る。ここから西北流し,右岸から纏向川・布留川など春日断層崖を必従谷となって流下し盆地へ流入する河川を合わせ,川西町北端で南流する佐保川と合流する。さらに河流を西に転じ,南方より寺川・飛鳥川・曽我川(支流に葛城川・高田川がある)・葛下川の諸河川,北方より富雄川・竜田川の諸河川を合わせ,亀ノ瀬峡谷をつくり生駒・金剛山地を分断して大阪平野に流出し,大阪府柏原市で石川を合わせて西流し大阪湾に注いでいる。古くは上流を泊瀬川,中流の一部を広瀬川,竜田川とも称した。「万葉集」には大和川支流の佐保川や泊瀬川,明日香川を詠んだ歌が多い。巻1の藤原京から寧楽宮へ遷った時の歌(79)によれば,藤原京から泊瀬川を利用して舟で下り,佐保川に至ったこと,泊瀬川が屈曲蛇行していたことが知られる。奈良盆地へ周辺の山地から流入する大和川支流の諸河川は,いずれも山麓部で扇状地を形成する。特に盆地東縁の春日断層崖下,盆地南部西縁の金剛断層崖下によく発達している。また,盆地中央部では曲流し,自然堤防を発達させている。人工堤防で流路を固定すると河床に砂礫が堆積し天井川となり,大雨が続くとしばしば堤防決壊による水害を起こした。元文5年葛城川決壊による御所(ごせ)流れはよく知られ,文化8年の初瀬流れや文化12年の大洪水などでも大被害が出ている。一方,盆地の水田面積に対する大和川の集水面積の割合が極端に狭く,奈良盆地外の地区に流域を持つ河川からの引水が困難であったため,盆地に溜池灌漑を発達させた。近年,曲流部分を少なくし川幅を拡張する改修工事が部分的に進展,また吉野川分水の通水により盆地が潤うようになった。しかし,河川上流部の開発進展による洪水氾濫が問題ともなっている。大阪平野に出た大和川は,かつては北西流して長瀬川と玉串川に分かれ,玉串川はさらに菱江川と吉田川に分かれて,吉田川は深野池・新開池に通じ,さらに,これらの池の水は西に流れて再び菱江川・長瀬川と合流し,上町台地北縁で淀川に合流していた。直接海に注がないため排水が円滑を欠き,しばしば堤防が決壊した。そこで大和川を石川合流点からまっすぐ西へ付け替え大阪湾に注ぐ案が立てられ再三請願,ついに幕府もそれを認め,宝永元年10月完成を見た(地形図に歴史を読む1)。近世における大和川の水運は亀ノ瀬を境として2つの舟運区域に分かれ,下流では大坂の剣先船が,上流の奈良盆地では立野の魚梁船が活躍した。魚梁船は本来「やなぶね」と呼ばれたが,公の場合は「ぎょりょうせん」といった。長さ8間半,幅5尺位の底の平たい舟で,むしろ9枚を張って帆とした。魚梁船の名は亀ノ瀬の少し上流を魚梁(やな)といい,竜田神社に供える魚を取るための梁を設けた所からきている。魚梁船による舟運の発端は,慶長6年片桐且元が平群郡内で2万石余の所領を得た時,その米を大坂に運ぶために角倉与市の協力を得て亀ノ瀬の岩盤を取り除き舟の通ずるようにし,慶長15年平群郡立野村の安村喜右衛門信安に命じて魚梁船を造らせたことに始まる。こうして近世の一時期を除き魚梁船は安村家に管轄され,亀ノ瀬より上流における大和川の貨物運送に従い,その船数は江戸中期以降約70隻という。「大和志」によれば,「蓋以立野為遭運之津,従是小舟上達初瀬川於加幡村又達寺川於今里」とあり,舟は大和川をさかのぼり,支流寺川に入り,田原本の北,今里が通船の終点となっていた。田原本は物資の集散地として,今里はその外港として繁盛し,「今里の浜」と呼ばれた。初瀬川では嘉幡(現天理市),佐保川では筒井(現大和郡山市),曽我川は松本(現田原本町)まで溯行している。舟運による貨物は,下り舟には米が主でほかは雑穀,盆地へ移入されたものは肥料(油粕・干鰯)・塩が主であった。明治5年,安村氏の独占権は廃棄され通船は自由となった。亀ノ瀬での荷物の積替えの不便を除くため水路を整備し,堰を設け,開門式で舟を通し,奈良盆地と大阪間は直通するようになったが,明治25年,大阪鉄道の開通以後貨物を鉄道に奪われ,舟運はなくなった(大和王寺文化史論)。昭和6~7年には,亀ノ瀬峡谷の北方,大阪府中河内郡堅上村峠(現柏原市峠)付近に大地滑りが生じ,約30町歩にもわたる区域が南方大和川に向って移動,このために大和川の河底および南岸の王寺町藤井の県道が隆起,大和川の河水はよどんで細長い湖状となったため河底の隆起部を削り,河岸を切りくずし,鉄道も南岸に迂回させ,峠集落も移動した(奈良県地誌・大和王寺文化史論)。近年,大和川の水質汚濁はひどく,有機汚濁の水質指標であるBOD平均値(1ℓ中)は北葛城郡王寺町藤井において昭和61年度11mg,同62年度13mgを示している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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