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吉野川
【よしのがわ】


紀ノ川のうち奈良県内を流れる部分をいう。紀ノ川は奈良県と三重県の境をなす台高山脈に源を発し,V字形の深い谷を形成,曲流しつつ西北流する。吉野郡吉野町立野から下流では西南西へ,中央構造線に並行して2~3km南を流れ,五條市を貫流して和歌山県に入り,和歌山市で紀伊水道に注ぐ。流長135.9km。流域面積1,659.0km(^2)。1級河川。この紀ノ川のうち吉野川と称する部分は,三之公川の合流点より和歌山県境までの流長70.05km,流域面積853.5km(^2)である。吉野川最上流域の川上村には,吉野熊野特定地域開発計画の一環として昭和48年に大迫(おおさこ)ダムが完成,また同村内の下流部に大滝ダムを建設するため,山腹に道路建設が進行している。川上村北西部で吉野川左岸に流入する音無川の渓流には蜻蛉(せいれい)の滝があり,松尾芭蕉は「笈の小文」で,「ほろほろと山吹ちるか滝の音」と詠んでいる。この付近より吉野川は大きく蛇行し,吉野町新子で支流の高見川が東から合流する。合流点付近の吉野町窪垣内・南大野は紙漉の里として知られる。吉野川はさらに曲流し,吉野町菜摘(なつみ)を経て宮滝の峡谷美をつくる。宮滝を流れる吉野川の北岸には河岸段丘が発達,縄文・弥生土器が発掘されている。吉野離宮の地をこの宮滝とする説が有力で,持統天皇は在位11年間に31回の吉野行幸を行った。吉野町河原屋で右岸から津風呂川が流入する。その中流域には,昭和37年津風呂ダムが建設された。津風呂川合流点近くの右岸には妹山,左岸には背山があり,浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」で知られる。吉野川は吉野町立野より吉野川構造谷に沿って,その南端を西南西に流れる。この谷は中央構造線の活動により,北側に急峻な断層崖をもつ断層角盆地形成後,著しい堆積が行われ,その南端を現在の吉野川が刻み込み,その間に段丘が形成されたといわれる(日本の平野,奈良県の地理)。吉野町上市は吉野川沿いに走る伊勢街道と南方吉野山・北方多武峰を越え,奈良盆地南東部へ出る交通路の交わる所で,宿場町として,また下市とならぶ古くからの市場として発達した。谷崎潤一郎は「吉野葛」の中で吉野川沿いの上市の秋のたたずまいを見事に表現している。対岸には吉野山があり,金峰山寺はその中心である。吉野町六田(むだ)(北岸は吉野郡大淀町北六田)周辺では川幅も広くなる。五條市に入ると西阿田・原・島野・六倉・牧・野原や五條市街地付近など河岸段丘面上に集落が発達している。紀ノ川を利用した木材の筏流しは慶長年間までは五條より下流でしか行われず,五條から上流は管(くだ)流し(1本ずつ流送)が行われた。その後,流送路の改修の結果,宝暦年間には川上郷入之波から紀ノ川河口の和歌山まで筏の通路ができた。和歌山の材木問屋へ流送されてきた吉野材は大坂や紀州領内へ販売された(日本産業史大系)。「大和名所図会」には栄山寺前を下る筏が描かれており,流筏は昭和初期まで盛んに行われた。ところで,神武天皇や雄略天皇による吉野行幸伝承の舞台はいずれも吉野川周辺に設定されている。神武東征伝承によると,天皇は八咫烏に導かれて吉野に入り,「吉野河の河尻」に至ると,ヤナを伏せて魚を取る人がおり,阿陀の鵜養の祖,国つ神贄持之子と自称した(古事記神武段)。さらに,国栖とは「川上」で,加弥比加尼(井氷鹿・井光)とは「神瀬」で出会ったという(姓氏録大和国神別吉野連・国栖)。なお,国栖は「吉野河の上」に居住したともある(応神紀19年10月戊戌条)。また,雄略天皇が童女に出会ったのは「吉野川の浜」で(古事記雄略段),天皇が歌を詠んだ蜻蛉野は「河上の小野」に所在したとされる(古事記雄略段,雄略紀4年8月戊申・庚戌条)。虞人に命じて猟をおこなった「御馬瀬」も吉野川流域と考えられる(雄略紀2年10月癸酉・丙子条)。佐代公は敏達天皇が「吉野川瀬」に行幸した時,氏名を賜ったともある(姓氏録和泉国皇別佐代公)。ただし,神瀬・川瀬・御馬瀬・小野などは具体的な地名ではなく,いずれも普通名詞であり,場所は特定できない。おそらく,これらの説話は斉明朝に吉野宮が吉野川上流域に造られ,そこへの行幸ルートが川に沿って設けられたことを前提に,構想された物語と考えられる。また,「万葉集」巻1の柿本人麻呂の歌に「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む」(37),巻2の弓削皇子の歌に「吉野川逝く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも」(119)など吉野行幸時に流域の情景が詠まれる(38・430・915・916・920・1104・1105・1134・1720・1721・1724・1725・1868・4100)。「懐風藻」にも兵部卿藤原万里の「五言。遊吉野川」(98),大宰大弐紀男人の「七言。遊吉野川」(72)がある。「古今集」に至ると,吉野川の両岸が隔てられていること,岩の間を激流となって流れることなどをたとえにした恋の歌が多い(序・124・471・492・651・794・828)。特に,吉野川が宮滝の地で岩間を激流となって流れる地点は「吉野の滝」と表現されている(万葉集313・908,古今集431・924,狭衣物語)。貞観年間の末に醍醐寺僧聖宝は「吉野河」に渡舟を設けたと伝承される(元亨釈書4慧解醍醐寺聖宝)。「枕草子」「今昔物語」(12ノ20,20ノ39)などにも吉野川の名が見える。「大和名所図会」には「吉野川 水源大台原山よりながれて,塩葉・伯母谷・和田・多古・白川渡・人知・大滝を経て東川に至る。旧名遊副川,古人詠題する所なり。これより国栖・樫尾を歴て菜摘村に至り,菜摘川という。宮滝・河原屋・立野・飯貝・上市・六田・土田・下新住等を経歴して宇智川に入る……上市より下は河のわたり広し。末は紀の川なり。紀州和歌浦へ出づる」とある。なお,吉野川の部分名称や別称として「万葉集」には「六田川」(1723),「六田の淀」(1105),「大滝」(1737),「夏実河」(375・1736・1737),「大川淀」(1103),「遊副川」(38)などの名も見える。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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