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吉野山
【よしのやま】


吉野郡吉野町,大峰山脈の北端に位置する山稜の総称。青根ケ峰・高城山・船岡山などの峰があり,中央構造線沿いに流れる吉野川との間には河岸段丘が発達している。北西方向に連なる長さ約8kmの山稜は北から下千本,中千本,上千本,奥千本と通称的に区分されている。吉野熊野国立公園に属する。古くは余思努(よしぬ)・曳之努(えしぬ)・美延斯努能(みえしぬの)・三吉野・見吉野・芳野などとも称した。神武天皇が熊野から大和に進入する際に,吉野首の祖の井光が天皇を迎えたと伝えられ,のちに応神天皇の吉野巡狩,雄略・斉明両天皇の行幸などが行われたという。また,天武天皇が大海人皇子であった頃に吉野を訪れ,「よき人のよしとよくみてよしといひし吉野よくみよよき人よきみ」(万葉集巻1)と詠んでいる。「み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今宵も我がひとり寝む」(同前)は文武天皇の行幸のときの作といわれている。役小角が金峰山寺(蔵王堂)を開き修験道を興すにおよんで,当地方一帯は開かれ,弟子の角乗・角仁の両僧が継承者として修験道の興隆に努め寺院などが建立されることにより,吉野の繁栄の基礎となった。平安期には真言宗の僧理源大師(聖宝)が修験道を中興し,その後鎌倉期にかけて隆盛し,吉野大衆と呼ばれる強大な僧兵を抱えた。文治年間には源義経が吉野に潜伏し,鎌倉期には護良親王が兵を挙げた。延元元年には足利尊氏に追われた後醍醐天皇が南遷して吉野宮を開き,後村上・長慶・後亀山の諸天皇の4代にわたり南朝の所在地となった。明治期に入り,交通の便が良くなると,桜の名所としてにぎわうようになった。吉野山の桜については,天智天皇の頃に役小角が山上ケ岳で苦行の末に感得した蔵王権現の姿を桜の木に刻んだので,人々は桜の木を神木として大切にし(和州巡覧記),参詣者からの苗木の寄進により増殖されたとする説がある。しかし,「万葉集」や「懐風藻」にある吉野を詠んだ歌には桜については触れられていない。文禄3年には豊臣秀吉が徳川家康などの諸侯を率いて,観桜の宴を催したことは有名である。公卿や武士のほかに文人も訪れ,本居宣長は「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」と詠み,芭蕉も「吉野にて桜見せうぞ檜木笠」と詠んでいる。桜は4月上旬から下旬にかけて標高250~900m前後の高度の差を移り咲く。山中には吉野神宮・金峰山寺・桜本坊・吉水神社・勝手神社・竹林院・如意輪寺・後醍醐天皇陵・金峰神社・西行庵など多くの宗教的・歴史的な名所がある。吉野山には大阪から近鉄吉野線が通じており,終点の吉野駅からケーブルカーに乗り継いで登ることができる。中千本から金峰神社,西行庵のある奥千本へは吉野大峰ドライブウエーが通じている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7170075