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和珥坂
【わにさか】


古代の坂名。神武即位前紀戊午年2月辛亥条に「和珥の坂下に,居勢祝といふ者あり」と見える。また,四道将軍の1人大彦命が北陸道に派遣された時,「和珥坂の上」に至ると少女に出会い,少女の歌から武埴安彦の謀反を予測,和珥臣の遠祖彦国葺とともに山背へ向かい埴安彦を討ったが,その途次忌瓮(いはひで)を「和珥の武坂の上」に据えたという(崇神紀10年9月甲午条)。一方,「古事記」崇神段にも,大毘古命は丸邇臣の祖日子国夫玖命とともに山代に在る津波邇安王を討つ途次,「丸邇坂」に忌瓮を据えたとある。さらに,応神天皇が近江へ行幸する途中,山城の木幡村で矢河枝比売に出会い,翌日比売の家で大御饗を献じられた時の歌に「櫟井の 丸邇坂の土を初土は 膚赤らけみ」と詠まれる。「延喜式」神名上の添上郡37座のうちに「和爾坐赤坂比古神社」(現天理市和爾町北垣内に鎮座),「和爾下神社二座」(現天理市櫟本町宮山および大和郡山市横田町に各1座が鎮座)が見える。前者は,天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)に「丸神戸」の租穀1,062束1把半のうち4束を祭神料に充てたとあり,「新抄格勅符抄」大同元年牒に「和爾神四戸〈大和〉」と記す。貞観元年,従五位下「和邇赤坂彦神」は従五位上に叙せられた(三代実録貞観元年正月27日)。忌瓮を据え,赤土・赤坂と称されるところから,当地は埴土の産出地であったと推定される。現在の天理市和邇町・櫟本町付近に比定される。現在集落内の幅約3mほどの緩坂に「和珥坂伝承地」の石柱がたつ。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7170182