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あやめの浜
【あやめのはま】


有田(ありだ)郡湯浅町栖原の栖原海岸の北部一帯を指す。もともと栖原は低湿地が多く,アヤメの群生地であったことからあやめの里と呼ばれ,海岸をあやめの浦,あやめの浜と呼んだという(田栖川漁協30年記念誌)。現在は浜の中ほどを北浦と呼び,北浦の南側一帯を真浦といい,ここが現在の漁港である。北浦の北側をあやめの浜と呼んでいる。真浦・北浦・あやめの浜を含めた栖原の浜は,中世有田地方に勢力をもった湯浅氏の水軍の根拠地の1つであった。湯浅水軍は,瀬戸内海をはじめ四国・九州に渡って食糧の輸送や海上連絡,警備の役目を果たしていたが,湯浅氏滅亡後は水軍に代わって,漁業に従事する者が増えていった。ことに栖原海岸は,遠海漁業の根拠地として発達し,江戸期に入ると兵庫県伊丹市の北村から移住してきた北村氏の3代角兵衛が漁船団を組んで未開発漁場の開発に乗り出した。また廻船業に従事する者もあり,漁業と商業両面で浜は活気づき,全盛時代には栖原の豪商たちは千石船を60艘近く保有し,あやめの浜にはいつも帆船が停泊していたという。これら豪商の中には,垣内氏,北村氏,北畠氏らが挙げられている。あやめの浜のすぐ背後には標高184.3mの白上(しらがみ)山がそびえ,西白上・中白上・東白上の3つの峰をもつが,西白上・東白上の峰には鎌倉期の名僧明恵上人の行場があり,明恵上人紀州遺跡率都婆がたつ。白上山の名にちなんで,あやめの浜は古来白上の磯(白神の磯)と呼ばれ,万葉集の中にも白上の磯を詠んだ歌がある。中世,熊野参詣の貴族たちは陸路に難所の多い所では海路を利用し,白上の磯もその1つであった。糸我の里から鹿打坂を越えて栖原に下り,白上の磯から船で由良方面に向かうものもあった。現在あやめの浜は漁港として利用されていないが,春秋のハイキングコース,夏の海水浴場としてにぎわっている。かつての広い砂浜も近年地盤沈下のため狭くなり,過去の面影を失いつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7170292