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那智山
【なちさん】


東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦町・熊野川町と新宮市にまたがる山々の総称。紀伊半島中部の海岸寄りにあり,烏帽子山(909m)を主峰に,東は光ケ峰(685m),西は舟見峠(883m),南は妙法山(749m)に区画された山域を,一般に那智山とよんでいる。承暦2年3月の範俊解案に「参詣那智御山」(東寺観智院文書)とみえるように,古くから霊山として敬称された。「熊野三巻書」に「那智山は音難地と号す」とあるのは,四囲を高山にうまる山中への行路に由来するものだろう。「後改めて那智と称す」「那は魔の義,智は蕩の義也」とある。邪法を払って正法に帰る地がこの山中だとする霊山思想からの説である。あるいは一説に,地主神であるオオナムチの転化とするなど(那智叢書18),諸説があるが定説にはいたっていない。周囲をとりまく連峰から流れ出る渓谷には,那智四十八滝といわれる大小の滝がかかる。那智大滝の一の滝をはじめとして,四十八滝すべて信仰の対象として本地仏が祀られ,神聖な行場として各社家に相伝された。公開されたのは,文化2年滝本の行者頼済によるものが早い例である(同前)。山内の色川気象観測所の記録によると,那智山での年間平均降水量は3,877mmにのぼり,同じ熊野地方の尾鷲(三重県)につぐ屈指の多雨地帯となっている。昭和43年には5,936mm,同47年には5,222mmと驚異的な降水量が那智山で観測されている(和歌山県の気象)。高温多雨の気象条件は,厚い原生林を形づくり,豊富な植物群を育てている。那智神社社有地を含む32町歩の山林は,本州第一の原生林といわれ,昭和3年以来国天然記念物になっている。山域内は,クスノキ・タブノキ・ホルトノキ・シイ・ヤマモガシなど温暖帯樹木のほか,山頂部には,モミ・ツガ・トチノキなど中間温帯に属するものが混在する。中には二の滝付近の,周囲8.3mのスギの巨木,5.3mのツガ,猿が群れをなして集まるというシイの巨木など,社叢の原生林ならではの巨木が林立する(那智勝浦町史史料編3)。そのほか,ウドカヅラ・カギカヅラなどつる性植物,オサラン・ナゴラン・カヤランの菌類が豊富で,とりわけシダ類の宝庫として学術的価値が高い。牧野富太郎発見のタキミシダ,南方熊楠発見のリュウビンタイをはじめナチシダ・ナチワラビ・ユノミネシダ・ホングウシダなど200種にのぼる(那智勝浦町史上)。「聖の住所は何処何処ぞ,大峰,葛城,石の槌」「南は熊野の那智新宮」(梁塵秘抄2)と今様に唱われる聖のすまいとしての那智山信仰は,みそぎ祓いの霊場,大滝への神聖観からはじまるとされる。延喜15年,参議三善清行の子三善源蔵の滝本修行があり(扶桑略記),安和2年には奈良興福寺の仲算・琳懐が滝本で般若心経を講じ,たちまちにして千手観音の御姿にふれたとされる(興福寺濫觴記)。ついで正暦年中花山法皇の3か年の滝本修行(熊野山略記3)のころから貴賤の来山をむかえるにいたった。その後,那智山一山への信仰の拡大がすすんだとみられるが,「大御記」に「本宮に三所社殿あり」としるされるところから(県史古代1),永保3年にはすでに三山の1つとして社格の成立をみていたことがしられる。中世熊野詣での盛況は,「中右記」をはじめ諸書にくわしいが,戦国期以来荒廃した神殿・堂舎は享保年間にいたって中世の姿にもどされたという(続風土記)。「名所図会」に描かれる境内の景観をみると,一の滝下流,文覚の滝の下手に愛染堂,川を隔て向かいあって不動堂があり,拝殿を中にはさんで数段の築地をめぐらせた千手堂が描かれる。仁王門をすぎ左手に道をとると南門へ,右の道は晴明橋をわたり,滝本から手引地蔵を経てきた滝道と合流する。このあたり築地をかまえて立ち並ぶ房舎は,那智三十六房といわれる社家の屋敷だろう。房舎の中ほどに,大師堂・回向堂があり道は東門へとつづく。権現社境内は,南門を入ったところに御供所・籠所があり,左手山ぎわに護摩堂・行者堂・満山社が並ぶ。正面社殿の奥には,右手に滝宮,少しはなれて証誠殿・中御前・西御前・若宮の四殿がつづく。左手に摂社が一殿におさまるところは今もかわらない。本殿から東へまわると,神楽所・札納所があり青岸渡寺の境内である。本堂東側には宝庫・鐘楼が描かれ,境内の裏手に鎮守社がみえる。標高330mをしめるこのあたり,東側正面真近に大滝をのぞみ,南は山すその村々から遥かに錦の浦を望見する景勝の地である。現在吉野熊野国立公園にふくまれる。




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「角川日本地名大辞典」
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