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石山
【いしやま】


岡山市丸の内1丁目と2丁目にまたがる微高地。東西約300m,南北約200m。花崗岩の岩株とそれを覆う土砂からなる。かつては東隣の岡山と北西の天神山とで島をなしていたといい,この島が「万葉集」の歌に詠まれた大島であるとの説もある。「桜雲記」の正平8年に「備前国岡山ニ於テ南朝ノ兵上神太郎兵衛尉高直戦死ス」とあるのが,この地を拠点とした武将の初出であるといわれる。大永年間頃には国人金光備前が居城としたが,元亀元年養子金光宗高が宇喜多直家に滅ぼされた。直家は城の修築を計画し,石山の東端の高所にあった石山明神の祠を金山寺に移してここに縄張りし,石垣を積んで本丸を築き,天正元年この城に移った。直家の子秀家は豊臣秀吉の指示によって,東隣の岡山に本丸を移すことにして,慶長2年までかけて天守閣を完成した。宇喜多氏滅亡後は小早川秀秋が岡山城主となり,城普請を続けた。南側の石山への登り口にあった石山門(昭和20年岡山空襲で焼失)は,富山城の大手門を秀秋が移したものといわれる。小早川家の断絶後は池田忠継が藩主となったが,幼少のため兄の利隆が藩政を代行した。この利隆によって二の丸帯曲輪(のちの西丸)の整備修築が行われた。この時の西手櫓は,西丸跡に現存している。寛永9年の国替え後は家老土倉両家の居宅があったが,寛文12年池田光政が引退すると,ここが隠居所にあてられた。維新後は温知学校,医学校,岡山高等小学校(現在の内山下小学校)の校地となって現在に至っている。一方,東端の最高所には万治2年に池田家の祖廟がつくられた。維新後閑谷神社の遥拝所になったり,再び祖廟が設けられたりしたが,現在は榊原病院の駐車場となっている。この地と西丸の間の中央部には,宝永4年に円務院が建てられ,維新まで続いた。現在この台地には,内山下小学校・岡山市民会館・NHK岡山放送局・山陽放送本社・榊原病院などが建てられ,岡山カルチャーゾーンの心臓部をなしている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7182163