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後山
【うしろやま】


英田(あいだ)郡東粟倉村と兵庫県千種町との県境にある山。標高1,344.6m。中国山地脊梁部に属する高峰の1つで,岡山県の最高峰。北には,鍋ケ谷山,駒の尾山,ダルガ峰(1,163m)などが県境沿いの尾根伝いに並び,南には志引峠の鞍部を挟んで日名倉山がそびえる。地質は,結晶片岩質の古生層や中生代の花崗岩・安山岩類からなる。後山山塊の上部は安山岩で構成されていて急峻であるが,南側の標高550~650m以下は崖錐性の堆積物の載った緩斜面となっている。緩斜面の中央部には厚い黒ボコ(火山性の黒色壌土)が覆い,東には後山,西に中谷の集落がある。斜面の南端は標高400~450mで,後山川や行者川の谷に刻まれ,狭い水田の広がる谷底平野となっている。後山は古くから修験道の霊場として知られ,白鳳期に役の行者が開いた山として行者山ともいう。また,大和吉野の大峯山になぞらえて西ノ大峯・元山上・吉野山などとも称した。後山の呼称は,南にそびえる円錐形にとがった日名倉山を前山とすることからきたとされ,「通俗行者本記」の回国開山の足蹟の中に,赤山(日名倉山)・青山(後山)の二山(ともに播州)があり,播磨山伏は千種町河呂から登る道を西山,または表山と称し,後山はその裏山の意味であるという。播磨側では板葉(馬)見山ともいう。役の小角は斉明天皇4年にこの山へ入って修行し,天智天皇10年にも再訪したという(後山霊験記)。その後,天平年間に行基,延喜年間には空海が来山したとの伝承もあり,山伏の後山参詣が盛んとなった。後醍醐天皇は隠岐より還幸の際にこの山を勅願所の1つとして御墨付を下した。戦国末期に中国地方を領した毛利氏は,荒廃していた後山の霊場を備前児島五流の太法院に命じて復興させ,行者山十二坊を建立した。その1つ道仙寺坊を継ぐ延命山道仙寺が,現在の後山の霊場を管理している。山岳霊場としての後山は,江戸中期より近郷在地の山伏等が多数入山するようになってにぎわいを増した。初めは天台系の五流山伏が多かったが,やがて道仙寺を含む真言系の当山派山伏が優勢となった。天保年間に道仙寺住職舜応が,後山中腹の標高1,000m余の地に,奥ノ院行者本堂を整備して,柴燈護摩修行が行えるようにし,京都醍醐寺より後山先達の任命・免許できる許可を得ている。江戸末期から明治初期のころには,各地に後山山上講が成立するようになって,五穀豊穣・雨乞・家内安全祈願のために,多くの人々が登山するようになった。山内には,登山口の護摩堂・女人堂から山腹や山頂,または山麓にかけて,庄境垢離場・鐘掛行・上の垢離場・大のぞき・びょうどう岩・馬乗馬場・弁天ノ滝・不動ノ滝など合計48か所の行場があるといわれる。毎年4月18日に開山し,9月7~8日に大祭,11月7日に閉山する。大祭には,奥ノ院で大柴護摩供養が行われ,多くの参拝者がある。奥ノ院行者本堂の下にある母子様の堂には「是より上女人禁制」と墨した板が掲げられており,女性はここから上へは登れない伝統が今も守られている。昭和44年にこの山を含む一帯が氷ノ山後山那岐山国定公園に指定されたが,この時の審議会でも女人禁制を認めている。後山一帯は,ふもとの杉・ヒノキの人工造林地帯から,中腹以上のブナ・ナナカマドに天然杉の混じる原生林地帯まで森林に覆われ,護摩堂の登山口から後山川の谷に沿って上る後山渓谷のカエデ類の紅葉は特に素晴らしい。山麓には後山キャンプ場や,後山青少年旅行村などの観光施設も整えられている。大字後山の集落から中谷にまたがる山麓の広い緩斜面は,強酸性の黒ボコが厚く,長い間未開の原野であったが,昭和13年より「野開墾」と称される開拓が前後6年にわたって行われ,その後美濃早生大根の導入により,30~40haに及ぶ広い大根畑が開けている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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