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長島
【ながしま】


邑久(おく)郡邑久町虫明に属し,虫明湾の南東にある島。北の鴻島,東の大多府島とともに日生(ひなせ)諸島に含められることがある。虫明湾南部の丘陵との間に約200mの瀬溝の瀬戸がある。東西約8.2km,南北は最大約0.8km,海岸線は屈曲に富み周囲約18km。島の中央部の船越は低く,これを境に東西に分かれる。全島山地で南東部などは海食崖をなしている。最高所は99m。島の西部は古生層の砂質岩,中心部は花崗岩で,東部にわずか流紋岩がみられる。東端の楯崎は楯をたてたような岩(流紋岩)があり,「打つ波にみちくるしほの戦ふに楯が崎とは云ふにぞありける」と歌によまれている(吉備温故秘録)。島の中央部の船越は屋島の合戦のあと義経の御座船が長島に吹き寄せられ,弁慶が船を引き越した地であるとの伝説がある(邑久郡誌)。大正年間全島はほとんど山林で,中部以西に水田が点在し,戸数20余り,村民が総出で行うボラ敷網は有名であった。ボラ敷網は昭和35年頃より衰え,現在鴻島との間はカキ養殖場となり,多くのカキ筏が並んでいる。長島の地に変化をもたらしたのはこの地にハンセン病患者のための国立療養所長島愛生園が設置されたことである。昭和2年日本最初の国立らい療養所がこの島に設置されることになり,村有地・民有地はほとんど国に買収され,一般の島民はいなくなった。現在病棟,患者住宅,職員住宅,作業場,慰安・娯楽施設,看護学校などが堀越付近から東部にかけて立ち並んでいる。買収した農耕地は患者の農園となっている。400名を目標に同5年完成した療養所は,その後収容人員が増大し,同18年には2,000人を超えた。その後減少傾向を示し,同55年現在1,075人である。昭和13年には大阪につくられていた公立らい療養所(2府10県連合立の外島保養院)が当地に移転し,同16年に国に移管され国立療養所邑久光明園となった。光明園の病棟は東部の木尾湾の湾奥から南海岸にかけてあり,職員宿舎は瀬溝渡船場近くにある。かつては1,000名を超えた患者も同53年現在686名に減少している。この2つの療養所に供給する水は吉井川から16kmに及ぶ水道管によって送られている。本土と接近した島でありながらハンセン病の療養所のため隔絶した島として知られ,小川正子による「小島の春」で有名になった。化学療法の発達により治癒患者も増え,社会復帰も可能となった。「つれづれの友となりてもなぐさめよ行くこと難きわれにかわりて」と貞明皇太后がよまれた当島も,同62年には虫明字瀬溝との間に架橋が行われ,本土と陸続きになった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7185362