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日本原
【にほんばら】


勝田郡勝北町と奈義町にまたがる台地。標高200~400m。両町の北部にそそりたつ那岐山・滝山・広戸仙のふもとに広がり,地質は泥岩・砂岩や礫岩からなる第三紀層を中心として,その上に目の粗い日本原礫層(洪積世)や,黒ボコと称する火山性の黒色壌土がのっている。広義には,西の山形仙山麓も含めて,東は那岐山南東麓の高円野付近までを日本原地方,または日本原高原と呼ぶが,狭義には,滝山南面の急傾斜な山腹が終わる傾斜変換点(旧風ノ宮付近)から始まり,南へ伸びて国道53号を越え,勝田郡勝央町鳥羽野付近まで,長さ約10kmの平坦面をさす。東西の幅は,北端では約1kmだが,国道53号付近が最も広く,岩倉川の谷を挟んで3km弱。南端近くには,勝央町高根,あるいは石生(いしゆう)北部に露出する変質した斑糲岩・閃緑岩や輝緑岩類(古生代)からなる丘陵があり,これらの硬い岩石によって軟らかい第三紀層が浸食から保護されるように残ったものである。台地の東西は,滝川および広戸川が刻んだ広い谷底平野で,沖積層が薄く覆い,一部に狭い河岸段丘もある。平坦な台地の表面は,雑木類がまばらに茂る一面の原野で,古くは広戸野と呼ばれ,その後日本原(につぽんばら)・日本原野となり,現在は「にほんばら」と呼ばれる。なお,中心部を日本原というのに対し,北部を奥日本野,南部を小日本野とも呼ぶ。この原野を横切って,鳥取と津山とを結ぶ因州往来が通っていたが,弘化2年この路傍に原野の風景を賞して松尾芭蕉の「野を横に馬ひきむけよほととぎす」の句碑が建てられたが,この句は,「奥の細道」の那須野での句で日本原とは関係はない。明治42年に日本原・奥日本野から那岐山麓の馬天嶺までの約1,300haの地が陸軍日本原演習地として接収された。以後この地は砲撃演習などの適地として,岡山・姫路両師団の演習が交互に続けられることとなり,東の滝本と西の新野(現勝北町日本原)に廠舎が設けられた。第2次大戦後,旧陸軍予備士官学校生徒など216人が陸軍補導会と称して開拓を企図したが,同21年に連合軍の占領資産のため解散を命ぜられ,演習地には駐カナダ軍の進駐などが行われていた。開拓は昭和21年より国道以南の一部に許可され,戦災者,外地引揚者など88戸が入植して新吉野村を造り,原野に鍬をふるった。演習地の大半は連合軍の駐屯が昭和32年に終わると,一時大蔵省の所轄を経て防衛庁の管理に移された。昭和40年からは陸上自衛隊演習地となり,旧滝本廠舎跡に第13特科連隊が駐屯している。なお,旧新野廠舎跡は昭和23年より日本原高校の用地となった。日本原地方は,特異な広戸風の常襲地として知られる。この風害のため,この地域の水稲栽培は早生種を主とし,里芋など根茎作物類にたよるなど,農作業に大きな制約を受ける。台地の上では,一時期リンゴの早生種(青リンゴ)の栽培などを行ったが,今は衰えている。国道以南の開拓地などでは酪農経営を採り入れ,牧草栽培などが多く見られる。また,日本原地方一帯の古い民家では,木背(こせ)と称する檜・赤松・椿などの屋敷森を持っているものが多い。かつて,日本原の北端,滝山急斜面直下の傾斜変換点付近に風ノ宮と称する一社があり,その境内にある穴(風ノ穴)から広戸風が吹き出すともいわれた。江戸期には津山藩や幕府の保護まで受けたが,明治42年にこの地が陸軍演習地内となると,原野の中に残った宮の森は絶好の砲撃目標とされて破壊され,現在は旧鳥居の片足が廃墟近くに残るのみとなっている。また,原野は乏水性の地形であることから,周辺の水田灌漑に供する溜池が台地の内外に多数分布する。主なものは,塩手池(貯水量118.5万m(^3))と那岐池(同83万m(^3))がある。県営塩手池は,大正14年から足かけ5年をかけて旧池を増築する工事が行われ,県下第2位の貯水量を誇る。その位置は日本原台地のすぐ西に接して,広い台地越しに秀麗な那岐・滝山塊を仰ぎ見る景勝地で,池畔にはレストハウスやバンガローが並び,日本原高原観光の一拠点となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7185749