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間山
【はしたやま】


英田(あいだ)郡美作町上相(かみや)と勝田郡勝央町田井の境にある山。標高261m。古生層の上に中生代末~第三紀の流紋岩質角礫岩が覆っている。周囲の第三紀層の丘陵より比高にして100mほど高い。山頂部はなだらかで,全体的に高原状を呈しており,狭い水田や畑が開け,間山の集落がある。山頂からの眺望は四囲に開け,東作の霊峰那岐山を愛でるのに最適な展望台といえる。南麓を,古代の官道や近世の出雲往来が横切り,東南には作州有数の広さの豊国田が広がっている。山上や山麓には,円墳や小型の前方後円墳など多数の古墳が分布する。地名の起こりは,土師または鍛冶などに従事した間人(はしびと)の居住する地の意味(豊国村誌稿)といわれ,山麓にはそれを暗示する鍛冶屋逧(かじやざこ)・岩井谷(祝部の居所)などの地名がある。また,一説によれば,もと勝南郡と勝北郡の間にあったので間山と称したともいわれ,半山・験山とも書いた。間山は上古以来,東作地方一の霊場として知られ,「美作旧跡録」には「昔作州一国の御祈祷,東半国はこの山にて執行すなり」と記されている。山頂付近には,推古朝の創建と伝えられる間山高(興)福寺跡があり,天平期の高僧行基もこの地を訪れて,「上見てもまた下見ても天の川中にそばだつ間山かな」と詠じたとの伝承もある。天の川とは東を流れる梶並川の別称である。一条天皇の治世,一山が衰微していたのを性空上人が再建し,堂塔伽藍が甍を並べて壮麗を極めたといわれる。その規模は東西南北2里四方に山門を有し,寺坊数知れずと伝えられている。室町中期に天台宗より真言宗に変わった。しかし,天正7年宇喜多氏の三星城攻略の際に兵火にあい(一説に自然発火の山火事),全山が消失し寂れていった。その後,高福寺に代わって間山安養寺として再建されたが,慶長年間に南方4kmの沢村(現美作町楢原下字沢)に移り,寛文年間に倉敷(現同町林野)の城山山麓に移った。間山には,正保年間に薬師堂が建立され,安養寺の奥の院として仁王院と呼ばれた。毎年卯月8日には祭礼が行われ,牛馬市も開かれてにぎわったという。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7185840