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東野崎浜
【ひがしのざきはま】


玉野市東野崎から西田井地・胸上に広がる塩田跡地。面積は93.79haで,東野崎浜(南浜)が73町9反6畝,胸上浜(北浜)が19町8反。南浜と北浜をあわせて東野崎浜ということもある。文政13年に野崎浜(48町9反1畝14歩)を塩田として築造した野崎武左衛門は,天保元年6月に当時の沼・山田・西田井地・東田井地・梶岡・胸上・上山坂・下山坂にわたる8か村沖の浅い海を干拓し,塩田を築造する計画を岡山藩に申請した。当時,すでに岡浜・中浜(享保2年)があり,さらに天保3年合田浜が築造された。野崎の計画に対して漁民や農民は反対を唱え,野崎は地元の大庄屋・名主の協力で,米を毎年村に与える,水はけをよくするために川を掘るなどの条件で彼らを説得した。そして,山田の川尻に広さ2町歩程の淡水の溜り場を造るように主張した農民の要求は残しながらも,岡山藩の許可が下りた。漁業権問題があったので,まず南浜を天保9年1月に起工,同12年3月に完成。北浜を文久2年5月に起工,同3年5月に完成(玉野市史)。味野村に築造された塩田を野崎浜と称していたので,それより東にあるこの塩田は東野崎浜と称した。製塩用の燃料は地元の石炭で,質は良くないが近くにあるという立地条件から利用され,さらに九州からも石炭が運ばれた。昭和13年に,北浜の先端の石炭殻の捨場を中心に干拓が行われ,工場を造った。これが現在のナイカイ塩業である。まず入浜式塩田としてこの干拓地は利用されたが,同32年6月からは枝条架流下式塩田,同44年10月からイオン交換樹脂膜製塩法によって塩がつくられている。同年塩田の一部を廃止し,面積は91.93haとなった。北浜は工場用地として利用されているが,南浜は利用されないまま荒地となって放置されている。南浜の北端には,天保9年に陸前(宮城県)の塩釜神社から勧請した東野崎塩釜神社がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7186075