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鷲羽山
【わしゅうざん】


児島半島南東端,倉敷市下津井田之浦にある山。標高133m。瀬戸内海国立公園特別地域で多島海と四国連山の眺望抜群の景勝地。全山花崗岩の露出がみられ風化も著しいが,第2次大戦後植林したクロマツが育ち緑が間を埋めている。最高所の岩場は昭和6年来訪した徳富蘇峰により内海の秀麗ここに集まるとして鍾秀峰(しようしゆうほう)と名づけられたところである。西麓には蘇峰揮毫による鍾秀峰と刻んだ石碑がある。山名は海上南方から望むと,鷲が両翼を広げた形に見えるところから名づけられたといわれている。東麓の岬が久須美鼻で,付近は昭和29年発掘調査が行われ,旧石器時代以降の各種石器の出土する遺跡が集中的にみられた。岬の丘上に久須美大師堂がある。鷲羽山から見下ろす南岸沿いに下津井・吹上・田之浦があり,東麓の大畠を合わせて下津井四ケ浦と呼ばれ,江戸期の北前船,西廻り航路の出船入船の名残をみせており,伝統的街並保存運動が起こっている。また,西方下津井港の北の丘上には下津井城跡があり,長浜(下津井四ケ浦)を城下としていた。今も石垣などを残し,人々はここを城山と呼び,自然の要害として備讃の海をにらみ,元和元年,一国一城令までその雄姿をみせていた丘陵が延びている。現在では年間百数十万人(昭和60年は140万人)の観光客を迎える県下の代表的景勝地であるが,昭和の初め頃までは訪れる人もなく,海上からの眺めであり,多島海や四国の遠望は祇園神社のある浄山からとか,四国街道の下津井への出入口,扇の嵶(おぎのたわ)からの眺めが知られていたぐらいであった。最初ここに注目したのは明治維新前後で,大畠の住職日下部一如法師で,鷲羽山の東半分を買い取って寺領とした。以後,明治29年南麓の大浜に海水浴場を開設,大正3年には下津井軽便鉄道(現下津井電鉄)茶屋街―下津井間が開通し,岡山・倉敷との連絡が一段と進められた。下電は軌間762mmの狭軌で,今は児島―下津井間6.5kmのミニ鉄道であるが,下津井の住民の足として重宝されている。昭和2年下津井海岸が毎日新聞社の新日本百景地に選定され,民謡下津井節も観光宣伝に一役買った。昭和5年文部省から国名勝に,同9年瀬戸内海国立公園の指定を受け,同13年付近の島々とともに特別地域に指定された。昭和25年毎日新聞社の新しい日本の観光地100の選定で,海岸の部第9位に入った。昭和35年久須美ユースホステル,同37年鷲羽山レストハウスと施設整備が進み,同39年には国立公園記念切手となるなどで全国的にも知名度を高めていった。昭和45年広江―下津井・吹上間17kmの鷲羽山スカイラインが県下初の有料道路として開通した。昭和61年市は鷲羽山ビジターセンターを開設し,鷲羽山の自然,くらしと歴史,瀬戸大橋の模型や解説を展示している。鷲羽山の魅力の1つはその優れた展望にある。東は播磨灘から西は水島灘までの大展望が開け,瀬戸大橋の架かる真向かいの香川県の櫃石島をはじめ与島から坂出番ノ洲,藤原純友ゆかりの松島,釜島,櫃石島の奥には本島,西に六口島,四国本土では五色台とパノラマが広がる。下津井節の一節「下津井みなとはよ,入り良て出よてよ」の石碑や,児島の俳人難波天堂の「島ひとつ土産にほしい鷲羽山」の句碑は秀逸である。歌碑はないが昭和8年この地に遊んだ与謝野寛・晶子夫妻も多くの和歌を残し,「涼しけれ岩と小松を空に置く鷲羽の山のたそがれの色」(寛),「港三つ鷲羽の山の白沙(しらすな)の襞の裾にし置かれたるかな」(晶子)などが見られる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7187357