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赤名峠
【あかなとうげ】


県北部双三郡布野村と島根県赤来町の境にある峠。西の三国山塊と東の高山山塊に挟まれ,中国山地の分水嶺である。標高580m。国道54号が峠道となる。峠名は,古来赤穴(鉄穴場)と称し,カナクソ・タタラ谷の地名が付近に散見できる。赤来町赤名から布野に至る交通路は「出雲国風土記」にいう三坂越と考えられ,陰陽の重要交通路であった。「和名抄」の三次(みよし)郡布努郷故地として「陰徳太平記」の伝える毛利・尼子両軍の布野合戦はこの赤名越の重要性を物語っている。江戸期には,雲石路として石見銀山からの銀も運搬され,峠には広島藩領国境碑がたてられた。碑は明治20年の道路拡張工事により,麓の横谷八幡神社内に移転され,2基の高さ1.7mの石材角柱が残る。1基は享保5年の三次藩の廃絶による横谷村の広島藩編入を機に,「従是南広島領,三次郡横谷村」と刻まれ,「事蹟諸鑑」に「三次郡横田(谷カ)村御境杭木石ニ被仰付,文字も広島領と相改候」とあり,三次藩時代は木柱であった。残る1基は,「従是南芸州領,従是南備後国三次郡横谷村」と刻まれ,長岡家文書に「御国境杭石,下地之分ハ享保年中……御建替と申伝居候処,此度天保三壬辰五月御城下ニ而御調替ニ相成,宿々夫方ニ而送リ来リ」とあるように天保3年に広島城下で製作して建て替えられた。広島藩北端の布野宿北方の横谷には,藩内最後の一里塚があり,その向かい側には赤名峠国境番所跡があり,番所には国境番人が置かれ,抜荷の取締りを目的としていた。宝暦9年・寛政13年・文化8年の御境番人住居建替願書付(長岡家文書)には,梁2間半・桁8間の番所建物に,藩の任命した地元農民2世帯の番人が住み,藩からの給米が支給されていたとある。大炭や小鉄などの製鉄原料は,出雲国側の商鈩に密売されたため,三次郡の御領分追放は,天保10年から元治元年の間に112名を数えた。藩はこの番所のほかに,支道の捨金にも国境番屋を置いていた。落合鈩跡は藩営鈩場として有名で,明治期に至り,作業本所は継続して県庁の管理下に置かれ,一部は島根県側に売られていた。明治以後も陰陽連絡の中枢となり,国道54号として交通量は増加したものの,冬季の降雪量は多く交通上の難所であった。昭和39年に,建設省は2年越しの赤名トンネルを峠直下に開通させ,工事費は両県が負担し,幅員7.5mで洞高4mの全長598mの隧道と1.8kmの取付け道路は完成された。現在では,広島市と松江市とを結ぶ特急バスが運行され,中国自動車道の開通以来通行量も増大している。田植歌謡の赤名節は有名で,歌人中村憲吉の作品や,山代巴の小説「荷車の歌」などに紹介されるなど,この地は観光地としても有名となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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