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今高野山
【いまこうやさん】


世羅郡甲山町甲山にあった寺院群の総称。旧境内一帯は県史跡。現在,本寺の愛染院竜華寺,安楽院,福智院のほか若干の堂宇を残すのみだが,かつては7堂12院をもつ大寺であったという。弘仁13年空海(弘法大師)の創建とする古刹伝承があるが(芸藩通志),実際は文治2年,後白河法皇が備後国太田荘を高野山金剛峰寺へ寄進して以後の成立とみられる。金剛峰寺が寺領太田荘の在地荘官として当地に僧侶を送り,彼らの活動拠点として諸堂宇建立がすすめられた。応永年間火災に罹るが,定雄が再興(世羅郡誌)。文明3年6月16日付西国寺不断経修行勧進并上銭帳(西国寺文書)には,今高野勝恵が500文を進上したほか,今高野衆の惣中が1貫文,福智院が300文,安楽坊が10疋を志納している。室町期に入ると次第に周辺武士の寺領押領が進み,在地荘務の管理所としての面は弱まる。明応2年・天文9年の火災は,土豪和智氏の援助で再興されており,同氏の氏寺化していった。天正年間頃は一乗院・西福院・延寿院・愛染院など8院が廃され,安楽院・金剛寺・福智院・成道院の4院が存続,七堂も求聞持堂・層塔・楼門の跡が残るのみ(芸藩通志)。天正19年の毛利氏八箇国御配置絵図では,金剛院に4石3斗余の寺領がみえる。慶長11年福島正則が,全山へ歳米50石,安楽院へ20石,他3院に各10石の歳米を給し,江戸期の広島藩主浅野氏も踏襲した(同前・世羅郡誌)。寛文7年広島藩士寺西将監が護摩堂を再建。元禄13年火災に遭うが,同15年広島藩主浅野綱長が,御影堂・観音堂を再建(御影堂内墨書)。江戸後期成立の「芸藩通志」は,今高野山を愛染院竜華寺とよぶと記し,諸子院減少後,境内上方の御影堂や観音堂を竜華寺が管理したとみられる。明治初年の神仏分離で,鎮守の高野・丹生両明神は丹生神社として独立。同5年廃寺となるが,同21年安楽院が成道院を,福智院が金剛寺を合併。甲山町の集落を北東に見おろす丘陵地に参道がのび,今高野山総門(県重文)をくぐると,かつての12院跡がつづく。現存する建物は安楽院山門,同院鎮守粟島神社の小鳥居(暦応3年在銘,県重文),福智院本堂のみ。さらに参道を進み右手石段を登ると御影堂・観音堂・宝物収蔵庫などが並ぶ竜華寺に至る。なお御影堂の傍には,昭和40年移建された安楽院本堂(県重文)があり,室町後期の書院造の遺構。寺宝として観音堂本尊の木造十一面観音立像2体(藤原期作,国重文),御影堂本尊の絹本着色弘法大師像(鎌倉初期作),同釈迦十六善神像や安楽院本尊の木造大日如来座像などの県重文を所蔵。




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「角川日本地名大辞典」
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