100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

芸予諸島
【げいよしょとう】


瀬戸内海の中央部,中国と四国の最狭部の広島県と愛媛県にまたがる島嶼群。古くから内海の航海上利用された。広義には東の備讃諸島,西の防予諸島を含めて内海中部を構成すると考える場合もある。古代には当諸島を上島諸島とし,防予諸島付近を下島諸島として,四国を統轄する伊予総領の支配下に置き,大三島神の司宰がそれに関係したという。今治を頂点に鞆と蒲刈を底辺にする逆三角形に広がる島嶼の分布は,主に中国地方南部における北東~南西,北西~南東の地形変動の影響を受けているとされる。瀬戸内海を西から東へ進む潮流は,この諸島にかかって多くの瀬戸をつくり,海底の深浅に変化をもたせ,魚が集まり,島嶼列に沿って動く潮は山陽沿岸と伊予の連絡において,舟を容易に導いた。また,内海で一般に危険な西寄りの風を防ぐ入江や潮待ちの場所が各地に存在した。諸島の特色は,内海を東西航する場合,当諸島内のルートのとり方いかんによって航程を短縮することができた点にある。古代の航路は山陽沿岸航路を主体としたが,遣使船のような大型船は沖合い航行に適すると同時に,航程を短縮することを考えた。鞆~尾道,三原沖~蒲刈,三之瀬~鹿老渡(かろうと)の沿岸コースは,弓削瀬戸―鼻繰瀬戸―伊予沿岸―防予諸島のコースや,木江沖(大崎上島~大三島間)を通るコースなどに変更されたようである。このような安芸地乗りから伊予中乗りへの転移は下津井を軸に展開するようになったようで,伊予地乗りとしての来島海峡の本格的な乗り切りは近世以降といわれる。その他,能島村上氏の根拠地であった伯方島と大島の間を通過するコースも航程短縮のために利用されることがあったとみられる。しかしこのコースは,高潮期には9ノット近い潮流をおしての困難な航海であった。県境部分は広い灘(西の安芸灘や東の備後灘)や,潮流の幅広い所であり,一般に四国への連絡(北東から南西方向)のために,四国側が潮流の方向に沿って多くの島を取り込んでいる様子をみることができる。中世,竹原小早川と沼田小早川を統合する形で毛利家から入籍した隆景は,それまでの村上,河野の海上勢力を配下に取り込み,そのことが結果的に広島県の芸予諸島への広がりをつくったわけである。当該諸島では柑橘栽培の一般性と,因島・生口(いくち)島・大崎上島・伯方島などの造船業があり,蒲刈島・向島・大島などでの呉・尾道・今治への通勤や通学が目立つ。かつて島は麦の産地であったが,今はそれすらも地方から送られている。昭和43年の尾道大橋,同54年の大三島橋,工事中の因島大橋と国道317号が橋で連結されるなど,旅客船業者の立場や工事による漁業補償問題がクローズアップされている。近世までにみられた社会経済における島嶼での魚塩の利や水軍の活躍も,近代になって本土側の各種産業の発展に押されがちとなり,島内の各集落ごとに本土と結びつく形がみられ,昭和43年に尾道市と今治市は姉妹都市縁組を結んだ。第2次大戦後,離島振興法などで島内一周の道路建設も進み,フェリー化した海上交通は1島1港(または少数港)の方向にあり,不便な地域も生じている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7188779