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東西条
【とうざいじょう】


旧国名:安芸

(中世)南北朝期~戦国期に見える広域地名。安芸国賀茂郡のうち。国衙領の系譜を引く鎌倉・南北朝期の西条郷・東条郷を連称したもの。周防大内氏の拠点。延元2年7月12日の後醍醐天皇綸旨に「安芸国東西条」と見える(毛利家文書)。一方,至徳元年11月21日の将軍家御教書では,義満が東西条の内でないことを確認したうえで安芸国三津村地頭職を小早川仲義に安堵している(小早川家文書)。このことは大内氏がすでに東西条を得ていたことをうかがわせる。大内氏の東西条領有の経緯については明らかでないが,「臥雲日軒録」文明元年6月8日条に足利義満が大内義弘の和歌を賞して与えたとの逸話を伝えている。応永元年10月13日の大内義弘預ケ状案では,義弘が福成寺別当職を興隆寺別当に預けており,福成寺は東条郷三永村にあったから,この時点での大内氏の東西条領有が推測される(興隆寺文書)。同32年閏6月20日の大内徳雄預ケ状写では竹原小早川弘景に「東西条内海村」を預け置くとあり,東西条は西条盆地にとどまらず沿岸部に及んでいた(小早川家文書)。一時期小早川氏に一部の領有が認められたこともあったが,ほぼ一貫して大内氏の支配下にあり,長禄4年には「安芸東西条御代官」が見える(大内氏掟書)。寛正2年に至って幕府は東西条を武田氏に渡すように大内氏に命じ,鏡山城が大内氏の手を離れるが,まもなく応仁の乱が始まり,大内氏は実力で奪回する。大永3年には尼子氏が南下して鏡山城を奪い,平賀氏なども尼子方に付くが,天文年間には改めて槌山城を拠点とした大内氏の支配が回復する。大永3年8月10日の安芸東西条所々知行注文によってその頃の東西条の構成がわかる(平賀家文書)。現東広島市にあたる寺町村・御薗宇・東之村・寺家村・三方・原之村・飯田村・したみ村・上戸村・田口村・三永村・三永方,黒瀬町の黒瀬・黒瀬乃美尾,福富町の久芳,河内町の戸野郷・郡戸村・河内村,安浦町内海,川尻,安芸津町三浦,呉市の広浦・仁賀田,安芸区阿土村および大内氏公領の重安名である。これらはいずれも大内氏支配の拡大に伴い,その支配領域が東西条とされた。天文15年には熊野(現熊野町)にも及び,西条のうちとされる。東西条の名は大内氏の滅亡とともに次第に使われなくなり,かわって西条によって東西条を指すような使用法も見られ始める。もっとも,天正18年でもまだ東西条が使用されており(石井文書),慶長年間に至って消滅するようである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7189882