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野呂山
【のろさん】


豊田郡安浦町西端にあって,山域は同郡川尻町・呉市にまたがり,北端は賀茂郡黒瀬町に及ぶ。山上に広い小起伏面をもつ。山上の小起伏面の存在から野呂高原と呼ばれることもある。最高地点は839.4mで三角点が置かれている。瀬戸内海国立公園のうち。「芸藩通志」に「野呂は,仮字にて,栄花物語に,のろのろしきといへるたぐひにて,此山,天表に逶迆として,奇峻ならざるより,名づくるにや,舟人は,安芸の鍋蓋(なべぶた)山とて,海上より望みて,地方を知り,又陰晴を卜すといふ」とある。大部分は高田流紋岩類岩石よりなるが,南西山腹~山麓,北および南山麓の一部は黒雲母花崗岩。また,南西山腹の一部に花崗斑岩の岩脈が走る。地形学的には賀茂台地中に突出する野呂山塊とされる。高度約700m以上の地に東西約4km,南北約2kmの小起伏面が広がり,そにに,緩やかなドーム状丘陵が東西に3つ並ぶ。そのうち,西側の最高地点のある山を膳棚山,東側の山を弘法寺山と呼ぶ。これらは中国地方高位平坦面上の遠隔残丘に相当するとも考えられている。西麓の石内より勧農坂,市原へと北東方向に延び,野呂川の流れる直線谷によって南北に分かれる。山腹は小起伏面から続く北山腹がやや緩傾斜をなすほかは傾斜が急である。西・南・東の山麓には2段の土石流扇状地が分布する。北山麓では山麓緩斜面が発達し,土石流扇状地もみられる。山上のドーム状丘陵には岩塔が多く分布し,弘法寺山にある大重(おおかさね)岩の奇観が特に知られる。また,小起伏面から山腹にかけての尾根および浅谷に岩海や岩塊流が多く分布し,小起伏面や岩塔とともにその起源が興味深い。弘法寺山には,弘法大師開山と伝え女人高野と呼ばれた真言宗弘法寺があり,今も大師堂・石灯籠等がある。「呉市史」によると,山上の開拓は江戸後期文政12年より山麓諸村と藩によって開始されており,当時つくられた溜池や猪鹿の害を防ぐ石垣が今も残る。天保4年には戸数200余を数えたが,凶作や疫病等でいきづまることも多かった。明治まで続いた開拓は一時中断し,国有林となったが,第2次大戦後再び開拓団が入り,ダイコン等高冷地野菜を栽培し始めた。しかし,生活条件の悪さや野菜の疫病等で下山する者が多かった。昭和30年代後半より観光開発が本格化し,膳棚山付近は民間による開発で多くの遊技施設がつくられる一方,それより東側の一部は自然破壊につながらないよう県の厳しい指導地域になっている。昭和43年南麓の川尻からの有料道路さざなみスカイラインが開通し,訪問客も増加している。山頂からははるか四国まで望める眺望はすばらしい。また,山麓との気温差が大きく西の軽井沢といわれることもある。冬は弘法寺山近くの氷池に天然のリンクができるほど結氷が著しい。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7190345