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向島
【むかいしま】


尾道水道(尾道瀬戸)を隔てて尾道市の南に位置する島。東部は尾道市向東町,西部は御調(みつぎ)郡向島町に属す。面積22.42km(^2),人口2万9,700。古代には歌島と呼ばれ,郷であった。それまで漁村に過ぎなかった尾道が嘉応元年大田荘の倉敷地となって発展し始めると,出入港する船への水や食糧の供給,船のタデヤキの場所の提供などで,向島も尾道との関係が深められていく。しかし,島の南側は因島村上氏との関係で,属城や見張城が余崎・大町などにつくられた。歌島から向島への呼称の転移ははっきりしないが,中世以降であり,江戸期にはすでに向島で,村名も向島東村と向島西村に分かれ,寛永年中にはさらに向島西村から立花村が分離し,そのまま明治を迎えた。尾道水道に面して向東町と向島町に大阪資本の大手造船所(現在は修理専門)の2工場がある。昭和45年尾道市編入の向東町は尾道大橋架橋も含めて北側が急速に都市化し,南は柑橘類やイチジク栽培,カキ・ノリ・アサリ養殖が行われ,釣場・大町海水浴場などがある。東部は歌島の旧名を残す歌で,横島~尾道間のカーフェリーは当地で車を降ろし,旅客のみをそのまま尾道へ運ぶ。また,対岸の戸崎へ戸崎瀬戸を渡る船もある。尼僧たちが和泉式部になぞらえた西金寺があり,歌で蛭を退けたという。他方,向島西村は昭和25年に向島町となり,同29年岩子島を,同30年立花村を編入した。向島東・西町の合併もあったが,結局折り合わなかったわけである。また,江戸末期に割庄屋高田恒次郎が民衆のために無料で始めた尾道への渡しが契機となって多くの渡しが生まれ,向島町と尾道の結びつきも強化されたが,合併には至らなかった。しかし,経済や文教事業なども含めて尾道と一体的な面は多い。昭和29年運行を始めた町営バスは同45年に尾道市営バスに代わり,電話は同41年の全域ダイヤル化で尾道市内局になった。さらに昭和46年,国道2号から尾道大橋を経て,建設中の因島大橋から今治への島伝いの路線が,国道317号に認定された。北部は富浜古浜の塩田開基が元禄10年で,その後尾道や向島周辺で開塩田工事が進行した。現在は,同地が住宅地や工業・文教用地になり都市化が著しく,西部や南部は柑橘・野菜・花卉栽培などを行う。南寄りの国立公園高見山,干汐の広島大学臨海実験所,立花地区の長寿者居住などが有名。地質は中生代白亜紀の広島型花崗岩で,20mの等高線をたどれば海岸線の入り組みはかなり激しく,向東町と向島町の境界になっている。兼吉~江奥新開間はほぼつながりそうで,江戸中期には満潮時に小舟が航行したという。島の西の満越新開も同様で,元禄の干拓により北の丘陵地と地続きになったという。歌は低湿地を意味する「むた」にも通じ,多くの塩田や新開の造成を可能にしたほど,低湿地が多かったと思われる。向島町北部の宇立は,歌島の津(歌津)を連想させ,川尻はそこが川の出口であったことを示している。津部田は,急潮の布刈瀬戸に面した入江で,津守に関する地名であろう。向東町の肥浜に対し,その南面の海岸には古江浜があって,古江奥と並列している。また,寺の多い旧尾道市街地同様,向東町も寺が多く,寺内の地名もある。農免事業によって尾道大橋と時を同じくし,向島~岩子(いわし)島間に向島大橋が架設された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7191205