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秋芳洞
【あきよしどう】


旧名称を滝穴(たきあな)(地下上申絵図),通称を「しゅうほうどう」という。美祢(みね)郡秋芳(しゆうほう)町秋吉の広谷ポリエ北西部に位置する石灰洞。長門(ながと)丘陵北部に広がるカルスト台地(約130km(^2),広義の秋吉台)のうち,厚東(ことう)川以東の狭義の秋吉台の地下に発達した洞窟。高さ約50mの石灰岩の壁下に開口し,洞口の高さ20.4m,幅8.1m,入洞できる延長約1.2km,最大幅約100m,最大高約40mで,空洞容積は約42万m(^3)と概算される,わが国最大の石灰洞。観光開発は明治40年に大田鉱山経営者の梅原文次郎が山口高等商業学校外人教師エドワード・ガントレットと広島高等師範学校教授中目覚に学術調査を依頼し,世に紹介されたことに始まる。大正11年3月8日,景清(かげきよ)穴とともに鍾乳洞としてわが国で最初の国天然記念物,昭和27年3月29日には石灰洞として唯一の国特別天然記念物に指定された。大正15年5月,当時皇太子だった今上陛下がこの地を探勝して秋芳洞と命名,同年9月改称された。約6km北東の白魚洞をはじめ,秋吉台の地獄台以南約18km(^2)を集水域とする地下水は,本洞を主流とし,一日平均水量4万m(^3)。こうもり穴・水島の小穴や温水(ぬくみず)の池ポノールなどから,厚東川支流の稲川に出る。狭義の秋吉台の地下水系は秋芳洞水系と鹿の井出(かのいで)の穴水系にほぼ二分される。洞内の二次生成物として鱗状に発達した畔石状有縁池の百枚皿や千町田(ちまちだ),高さ28m・直径8mの大石灰柱である黄金柱(おうごんばしら)(旧称こがねばしら),天井に届く崩壊物の石灰華柱である洞内富士などが代表的である。昭和30年12月,洞口から北約800mの所に台上を結ぶエレベーターが完成。その前の千畳敷から左へ行くと黒谷支洞で,昭和38年完成の人工トンネルを経て矢の穴ドリーネ底の駐車場へ出る。主洞部より一段と高い黒谷支洞には洞窟がまだ小さな割れ目であった時に,地下水が充満していた飽和水帯管の跡が残る。千畳敷の右約600m奥の琴ケ淵や洞口に近い青天井を連ねた水準と一致する標高116mの洞壁には水平の溝(ノッチ)が見られるが,これは洞外の秋芳町旦(だん)や福王田(ふくおうだ)の高位段丘と同じ洪積世中期末の形成である。洞内は標高100~105m付近で側方拡大が進み,幅の広い長淵では2段の岩石段丘と水平天井が見られる。長淵両岸は12mの垂直な段丘崖で,その後の下刻により峡谷型の洞窟へと変化した。約2万2,000年前に大量の砂礫流入があったと見られ,岩石段丘上に薄い砂礫層があり,洞口部では標高101m付近まで埋積されたと思われる。琴ケ淵から先は水面と天井が接し,約30mの潜水で長さ約100mの玉串洞,さらにもう100m潜水で第二玉串洞に到達する。第3の空洞約200mは,昭和61年2月に140m地下水流をさかのぼった奥で発見された。洞窟が拡大していく過程で構造的弱線に沿って大落盤が発生した。千畳敷での崩落層の厚さは約20m。その下部には厚さ4mの礫層がある。崩落で空間が拡大すると,二次生成物による装飾が盛んになり,紫雲台・百枚皿・洞内富士・傘づくしはこの時期に形成されたと考えられる。百枚皿の奥は上位段丘上にあり,観光道路付近は下位段丘である。野外に沖積面が発達する現在,洞床は標高80mまで下刻され,過飽和状態の流水中に沈積した石灰分は畔石状の滝を洞口に形成した。昭和30年,東秋吉台の主要部が秋吉台国定公園(4,534ha)に指定された。同32年大田陸軍演習場としての秋吉台が返還され,翌年秋吉台青少年宿泊訓練所が開設され,同34年には町立秋吉台科学博物館が設立された。観光誘致投資も次第に活発化し,同45年には大正洞や景清洞がある奥秋吉台に通じる有料道路10.7kmが台上に開通。秋芳洞入口からバスターミナルまでに食堂・土産物店・旅館が並ぶ。秋芳洞観光客数は,昭和26年に10万人を越え,同59年は約156万人,これまでの最高記録は山陽新幹線が開通した同50年の約198万人であった。エレベーターや人工トンネルの完成は洞窟を大風洞化し,風の循環は洞内に混合霧を発生させた。洞内気流および人や動物による種子の運搬で照明のある所は植物が生え始めた。冬季に洞口付近から谷間にかけて発生する蒸発霧は地下水温(13°~16℃)と気温との差によるものである。洞口付近の魚類はアブラハヤ・カワムツ・ヨシノボリが多く,洞窟動物としては7種類のコウモリのほか,扁形動物・軟体動物・環形動物・節足動物の存在が知られている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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