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萩平野
【はぎへいや】


県の日本海側のほぼ中央に位置し,阿武(あぶ)川が形成した三角州を主とする約15km(^2)の沖積平野。平野の少ない北浦地方では大津平野に次ぐ広さを有し,現在では地域の中心的存在。津和野城主吉見正頼は晩年指月(しづき)山麓に別邸を構え,三角州末端部の浜堤状砂堆には家臣団や寺社をはじめ商工業者を集め,城下町的なたたずまいを形成,この地域を古萩という。砂堆の幅は0.7~0.9km,最高地点は保福寺墓地で約10m。砂堆南縁の繁華街田町と国道191号の交差点を唐樋と呼ぶ。江戸前期の慶安5年作成の萩城下古図では弘法寺のある浮島地区は広法島と記され,島と砂堆の間に入江があって,唐樋の水門まで湾入していた。現在では萩市の官庁および文教の中心地として栄えている江向地区は,「田町通りより南東は皆泥にて蘆原の水溜り也,田も聢々無之能道もなし」(注進案)とあるように,江戸期には砂堆の後背低湿地で,一面に蓮田が広がっていた。関ケ原の戦で防長二州に減封された毛利輝元は,大田川三角州に似た阿武川三角州を新しい城地に選び,慶長9年に着工,同13年完成した。町割は,慶長10年から萩市民館西側の路上に残る町割原標石を基準に進められた。築城当時沼の城といわれた三角州では,治水が最大の課題であった。まず元和2年に「蛍火山の下より南明寺の麓小松江の方へ行って桜江へ出る」川筋を現在のように迂回させた(注進案)。慶安古図では濁淵付近で蛇行する旧河道が遊水池として利用され,阿武川は橋本橋手前までほぼ直進し,太鼓湾から右に曲がる松本川への洪水時流量を抑える工夫をしている。松本川河口には廻船基地である浜崎や御船倉があり,渇水期の水量確保のために,竜蔵寺の対岸付近から分流地点に向けて橋本川への水量を防ぐ岡部井堰が水中に築かれていたことが享保年間の城下図に見える。三角州内の排水工事としては,平安古河岸端の外堀から田町の南を通り唐樋に至る新堀川掘削(貞享4年),太鼓湾から川島・江向・河添などに至る灌漑用水路を整備・開削して新堀川と結んだ大溝(藍場川)が有名。雁島開作は,松本川から流出する土砂が北西季節風に打ち上げられた浅瀬を浚渫し,明和6年から安永3年にかけて河口右岸に完成した。嘉永5年から安政2年にかけて開削された姥倉運河も,水運と放水路を目的とした阿武川の治水対策である。現在も姥倉運河入口付近ではスカと呼ぶ浅瀬が,橋本川河口では浜堤西ノ浜が発達している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7194085