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防府平野
【ほうふへいや】


周防(すおう)灘沿岸のほぼ中央に位置し,佐波(さば)川河口一帯に形成された平野。矢筈岳と八幡岳を結ぶ佐波川谷底平野から下流,河口で合流する横曽根川以東,大平山および江泊山以西の崖錐地を含めた平坦部の面積は約57km(^2)で県下最大。平野西縁を南西流する佐波川右岸は,姫山より上流の右田や高井地区において自然堤防も不明瞭な網状旧河道が全面に広がり,度重なる洪水を物語る。国道262号沿いの剣川や江良の素川は扇状地を作り,扇端は低い段丘となっている。佐波川左岸は右岸の乱流が延長拡散したもので,標高107.4mの孤立丘桑山を東縁に,航空自衛隊防府飛行場北辺の伊佐江や揚浜塩田があった塩屋原を先端として扇状地状三角州を形成し,乱流した流路跡には灌漑用水路が名残をとどめる。低湿地だった泥江の西側山麓は縄文海進期の海食崖が弧状をなし,その前面の沢田は砂州状微高地に立地する。同じ頃に形成された桑山南側の鞠生の松原は,沿岸州から発達し,雁行する3列の砂堆3列目に当たる。最前列の新前町砂堆は,7世紀後半以後の堆積。勝間から中新田を経て寺開作に至る2列目の砂堆は弥生時代の形成で,元禄12年に萩藩主毛利吉広により270余町歩の大開作が行われ,赤穂と並ぶ三田尻塩田の発祥地となった。鞠生の松原西側の晒石(さるいし)開作は最も古い。寛永5年の藩公営潮合(しあい)開作は三田尻宰判最初の本格的海開作として田島を陸繋化した。防長三関として栄えた中関は,明和4年の大浜塩田開作に続いて毛利重就が産物移出港として築いた港町であった。平野内の干拓および埋立地は約25km(^2)に及ぶ。昭和35年三田尻塩田が全面廃止となり,現在かつての干拓地には昭和初期までに操業の協和醗酵・鐘紡のほか日本たばこ・東海カーボン・ブリヂストン・マツダが進出し,市営スポーツセンターや鶴浜鉄工団地も立地する。同60年県公共岸壁が完成して3万tの船が入港可能となり,三田尻中関港は県内1位の出荷額を誇るようになった。企業の進出に伴う人口の急増は,山口市や防府平野東端の牟礼地区の住宅地化を促進した。牟礼の海岸に近い今宿から沖原に至る砂州の全面には柳川の三角州と干拓地が広がり,天井川が多い。多々良山の南麓には,古期沖積層(国衙層)の下にクサリ礫を含む砂礫層(宮市砂礫層)が厚く堆積し,本州西端でいう中位および低位洪積段丘が埋没している。国衙層は縄文海進期に堆積し,その後の海水準低下でJR山陽本線付近に古期沖積段丘を形成する。段丘面には条里地割が約360町歩に渡って分布し,条里の溝に沿って大樋土手のように天井川が形成されていた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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