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八ケ浜
【やつがはま】


豊浦郡豊浦町の南西部,吉永川と黒井川両河口の間に形成された砂浜海岸。甲山(かぶとやま)・青井両半島に抱かれ,北西方向に開いた室津湾の湾奥をなす。全長約1.5kmで,幾分遠浅を呈し,沿岸一帯には風化花崗岩の基盤の上に被覆砂丘が発達する。この砂堆は標高20m前後・幅500~800mの規模で,昭和20年代末頃に下関ゴルフ場が開設され,近くに川棚温泉もあって,下関市や北九州方面から多くの観光客が訪れる。砂堆を隔てて八ケ浜集落が内陸側に位置し,水田地帯が広がる。一方,湾内に面して吉永川河口の北側に涌田後地(わいたうしろじ),黒井川河口の西側に松原・間(はざま)・室津下の漁村集落が立地し,古くからの漁港が涌田後地と室津下にある。八ケ浜砂丘は,松原遺跡の出土遺物から,弥生中期頃にかけての海退期に形成されたものと考えられる。文永の役の翌年,建治元年に蒙古の杜世忠・何文著一行が宣諭日本使として室津に着岸したことは,長門国に緊張感を高めさせ,元軍の襲来に備えて,八ケ浜海岸にも石塁が築かれた(元寇防塁編年史料・豊浦町史)。現地では台場と呼ばれ,嘉永2年吉田松陰が北浦海岸を巡見した時,「涌田・青井の台場,室津浦の台場,甲山の台場を遠見す」と書き記している(廻浦紀畧/吉田松陰全集7)。その後,この石塁は家の造作や庭作り用に持ち去られたり,第2次大戦中に塹壕造りで掘り乱されたりして大半が消失した。昭和53年の豊浦町郷土文化研究会による現地調査では,その位置が海岸線から約80m離れたところと確認され,現在まで2か所で石塁跡が発見されている。寛政2年に八ケ浜植松騒動の原因となった松林は長府藩が砂留松として植えたものとされ,現在でも海岸の一部に残る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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