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剣山
【つるぎさん】


「けんざん」ともいう。県南西部に位置し,三好郡東祖谷山(ひがしいややま)村・美馬郡木屋平(こやだいら)村・那賀郡木沢村の3郡境をなす山。標高1,954.7m。四国山地の東の盟主であり県下の最高峰である。西日本では愛媛県の石鎚山に次ぐ。近世には山岳信仰の山として栄えた。現在は測候所や三角点のあるピークのみを剣山と称しているが,古くは隣接する一ノ森・ジロウギュウを含めての汎称であった。標高については,四国内で石鎚山と一,二を競うことが意識されて異同が生じた。大正4年の「美馬郡郷土誌」には,「古来,石槌山は四国第一の高山と称されしが,明治三十二年出版の百万分ノ一大日本帝国地質図に,石槌山を二〇九七米,剣山を二二四二米と記せしかば,爾来学界は剣山を以て四国第一となすに至れり。然るに近年五万分ノ一地形図の完成するあり。石槌山は一九八一米,剣山は一九五五米と最後の断定を下したるを以て,終に古来の通り石槌山を以て四国第一となさざるべからざるに至れり」とあり,現在では石鎚山の三角点が1,920.6m,頂上は天狗岳の標高1,982mとなっており,標高においては一歩譲っている。山名は,源平合戦の頃に安徳天皇の剣を山頂に埋めた(祖谷紀行),剣を大山祇命の社に奉納した(剣山由来記)ことによるとも,山の神体が剣形の巨岩である(阿波志)ことにちなむなどの諸説があるが,いずれも山岳信仰と関係する。信仰登山の行われる以前には石立山,または立石山と呼ばれていたらしい。剣山国定公園に含まれる。古く祖谷山と別称されることがあったのは,祖谷地方(祖谷山ともいう)からの登山が多かったためである。口碑によれば,天平勝宝4歳に京都の占師17人が伊豆・隠岐・土佐に流刑になった。そのうちの1人恵伊羅御子が妻小野老婆とともに祖谷地方を開拓した折に,大山祇命を総鎮守としてこの山に祀ったという。寿永4年,屋島の合戦で敗れた平家は安徳天皇を奉じて祖谷山に潜伏して再興を謀った。平家の総大将は国盛(教盛の次男)であり,剣山の頂上で馬術の訓練を行った。山頂の平坦部の笹原を平家の馬場と呼ぶのはこのためであるという伝説がある。南北朝の頃,南朝(吉野朝廷)に味方した阿波山岳武士たちは祖谷地方・木屋平に居住し,現在剣山の登山基地となっている見ノ越を1つの交通路として利用した。近世になってから,剣山の修験道は急に盛んになってくる。「阿波志」によれば,「麻植・美馬郡にまたがる。山はなはだ霊秀にして闔国(阿波国中)無比。諸山川これより分る。冬至れば積雪丈余,季春(旧暦3月)わずかに消ゆ。長夏にあらざれば人あえて登らず。西,美馬郡菅生名(現在東祖谷山村菅生)をへだたること四里。南,那賀郡岩倉(現在木沢村岩倉)をへだたること六里ばかり。東,本郡茗荷名(現在木屋平村川上茗荷)をへだたる三里,この間に人家なし,登る者は星をいただきて往き,星をいただいて帰る」とある。江戸期には信仰登山(修験道)が行われ,登山者は斎戒沐浴し,女人禁制も行われた。登山道は,古くは祖谷川方面から開かれたが,近世の信仰登山の頃には木屋平村の富士(藤)ノ池コースが表登山道となった。宝暦7年の「異本阿波志」には,「剣山。祖谷山東の端なり。この山上に,剣の権現御鎮座あり。また小篠の権現とも申すなり。これより高さ三十間ばかりなる柱のごとき巌立ちたり,是を此の山の御神体と崇む。別に社等なし。ここに古しへより剣を納む。此の巌に立つあり,風雨これをおかせども,聊も錆びず,誠に神宝の霊剣なり。六月七月には参詣多し。(東祖谷山村側の)菅生名より五里,この間人家なし,夜に出て夜に帰ると云々,その余(木屋)平山より参詣の道あり。諸人多くは是より登る」と美馬郡の項にさえ,麻植(おえ)郡木屋平村(昭和48年美馬郡に編入)からの登山者の多いことを記している。「阿州奇事雑話」にも「剣山の前神と号するは麻植郡木屋平山の奥,川上名に有り。また一には藤の池と言ふ」とある。また,「灯下録」に「剣山は木屋平山竜光寺の奥山なり」などと記されている。剣山信仰の奥の院は剣山の頂上直下にある剣神社(大剣権現)である。「異本阿波志」によれば,同書の記述された宝暦7年には社殿はなく,神体の岩峰だけであった。その後,「阿波志」の記された文化年間には社殿は建造されていた。剣神社は木屋平村の竜光寺,東祖谷山村の円福寺の両派が共有した。剣山修験道は2派に分かれ,藤の池派は徳島県の東部・南部の信者を掌握し,東口(木屋平)から登り,表口と称している。見ノ越派の信者は美馬・三好両郡に集中しており,西口(見ノ越)を経由して参詣する。剣山修験者は大正・巴・梅鉢・松葉・桜・日の出・惟神などと呼ばれる講組に組織され,県内だけでなく四国・中国・近畿などから参詣していたが,現在の登山観光化によって衰退している。信者は剣山の北東山腹にある数々の行場で修行をする。近世以来,信仰登山の他の目的でも登られている。名東郡沖洲村(現徳島市沖洲)の国学者・本草学者太田豊年は,享和元年に医師学問所(藩校)の教授小原春造の薬草採取に随行して登山した記録「茂山日記」を著している。その他にも数多くの文人が登山し,紀行文・詩歌を残している。スポーツ登山が本格的になるのは第2次大戦後で,山岳会などが四季を通じて登っており,夏期には大学・高校の登山競技も行われる。全国的には,昭和36年に全日本登山体育大会,同55年に全国高校体育大会が剣山で開催された。剣山は古生代末期から中生代初期にかけて海底が隆起した褶曲山脈である。頂上は平家の馬場と呼ばれるミヤコザサの平原状になっており,一面に6,300年前の屋久島北の鬼界カルデラの火山灰に覆われている。地質は砂質泥岩層を主体とし,石灰岩層の巨岩が剣山の御神体岩や北東部の行場を形成している。植物分布では夫婦池・見ノ越追分までは温帯植物区をなし,ミズナラ純林やヒメシャラ・ナツツバキ・アズサ・イタヤカエデ・ブナなどが自生する。西島神社・行場・追分上部からは亜寒帯植物区となり,ダケカンバ・ナナカマド・ミネカエデ・シコクシラベの純林などが自生する。頂上近くは樹木はなく,ミヤコザサが優占し,コモノギク・コガネギク・シコクフウロ・イブキトラノオなどが所々に群落を形成する。剣山の特産種としてツルギハナウド・トガスグリ・ケンザンデンダなどがある。動物ではシコクヒミズモグラ・アズマモグラがいる。カジカやサンショウウオも多い。ツルギサンマイマイ・ツルギサンゴマガイ・イヤヤマキビなどの陸貝も数10種類確認されている。鳥類では夫婦池から上で,シコクコゲラ・コノハズク・トラツグミ・ホシガラスなどが生息する。山麓の生活は厳しく,傾斜の急な山畑にタバコ・キビ・コンニャク・ソバ・ミツマタ・茶などの典型的な畑作農業である。昭和11年10月に剣山顕彰会が発足し,同年12月徳島県議会は剣山を国立公園に指定する建議案を採択したが,剣山が観光地としてクローズアップされるのは戦後になってである。昭和39年3月に剣山を含む1万8,412haが剣山国定公園に指定された。昭和42年には丸笹山周辺の森108.9haが県民の森となり,同44年に2階建の県民の森資料館285.34m(^2)が完成。同41年に国民宿舎剣山荘(夫婦池),同45年見ノ越から西島神社までの登山リフト,同52年剣山スキー場(塔ノ丸北傾面)が次々と建設され,剣山は徳島市から日帰りのできる観光地に変貌を遂げた。その最大の要因は見ノ越までの自動車道路が貞光町・池田町・穴吹町・神山町から開通したことである。現在,剣山への登山道は貞光町から見ノ越,池田町から見ノ越,穴吹町から見ノ越,神山町から川井峠を経て穴吹コースに合流,木沢村のスーパー林道を経てジロウギュウへ登るコースがある。車を利用する場合はすべて見ノ越に集中するので,かつての表参道とされた木屋平村からの登山道はさびれた。現在,見ノ越には剣神社・円福寺・平家落人遺品館(民営)・登山リフト駅・大型駐車場・食堂売店・民宿などがあり,夏期登山シーズンには連日数万の人でにぎわう。昭和53年の登山者は165万4,000人を記録した。頂上には剣山測候所が,昭和19年に設置され,2~3人の職員が通年常駐し気象観測を行い,日本でも数少ない山岳測候所として予報・防災・気候統計に重要な役割を果たしている。他にもヒュッテ・宿泊所が2か所ある。観光化の増幅は自然保護・環境破壊とも関連し,県との間に問題となった牧野林道や自然保護団体と係争中のスーパー林道建設など大きな問題をかかえている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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