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徳島平野
【とくしまへいや】


県北部吉野川流域の扇状地・河岸段丘を含めて,紀伊水道に面する沖積低地を合わせた平野。吉野川平野ともいえる。県庁所在地である徳島市の市街地は吉野川の形成した三角州上に形成される。吉野川は,三好郡池田町から東流し,河口まで約80km,広い河谷を形成している。河谷の幅は,池田付近で1~2km,河口付近では10km以上に広がり,くさび形をしている。徳島市の市街地から南方は,園瀬(そのせ)川や勝浦川が形成する沖積低地である。徳島市・鳴門市のほか,板野郡・名西(みようざい)郡・麻植(おえ)郡・阿波郡・美馬郡・三好郡の23町が含まれる。吉野川北岸には,讃岐山脈からの小河川が形成した扇状地が複合して分布している。かつては広大な桑園がみられたが,現在は農業用水路の整備や耕地整理などによって,水田や園芸農業用地がみられる。この平野は中央構造線に沿う部分が浸食され,その後の堆積を加えて段丘が形成された後,最終氷期に続く海進期に,本流や支流からの土砂により埋積されて形成されたものである。構造線は平野の北縁に位置することが多く,その周辺は多数の断層で切られて各所に変動地形を見ることができる。旧吉野川沿いには,かなり明瞭な自然堤防や後背湿地帯がみられ,洪水時には後背湿地帯の冠水が多くみられる。自然堤防帯以東は,広い三角州地域で,地盤高は,-0.4~4mである。0m以下の低地は最近の干拓地である。海岸には数列の砂州(浜堤)がみられる。三角州地帯は,洪水時に長く湛水するほか,高潮に対する危険性もある。第二室戸台風(昭和36年9月)では海岸堤を乗り越え,また河川をさかのぼって高潮が浸入した。昭和21年12月の南海地震による地盤沈下も記録され塩害が発生したが,沈下は近年も記録されている。国鉄徳島駅北側の城山(しろやま)(藩政期の徳島城内)や市街地南側の眉山(びざん)の山麓には,海抜2.5mの水準を示す海食痕があり,城山の海食洞には,縄文後期・弥生前期の貝塚(大正11年,鳥居竜蔵氏によって発掘調査)がある。徳島新聞社刊行の「徳島県百科事典」には三角州地帯の地質は,最大厚さ40mの沖積層の下に地表下200m以下まで未固結砂礫層があるとしている。古くから吉野川流域を北方(きたがた)と呼ぶが,この北方の藩政期の主力であった葉藍の栽培も,明治30年代を境として衰退した。これに代わって畑作の中心になったのは桑であったが,昭和初期には,米作へと移っていった。しかし,現在では,京阪神市場への園芸農業地帯として農業経営も多角化している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7196684