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那賀川
【なかがわ】


四国東部の主峰剣(つるぎ)山南方から東流し,阿南市北方で紀伊水道に注ぐ川。吉野川に続く県内第二の長流。1級河川。幹線流路延長125.0km,流域面積781km(^2)。主流の源はジロウギュウで那賀郡木頭(きとう)村を東流後,同郡上那賀町出合で,剣山南斜面を源とする最大の支流坂州木頭川と合流する。南流あるいは北流する部分には,高ノ瀬峡・歩危(ほき)峡などの横谷をつくる。中流は著しい穿入蛇行を示す。上那賀町平谷や那賀郡相生(あいおい)町蔭谷・横石・大久保・入野は狭い山脚が切断され河道が短絡した後の蛇行跡で,鷲敷(わじき)から上流に発達する段丘面とともに,山間住民の主な居住地となる。下流の阿南市上大野町以東は扇状地となり,末端の三角州帯は小松島湾南岸から橘湾北岸まで広がる。川名は,大化改新以前にこの川の流域に存在した長(なが)国(現在の阿南市・那賀郡・勝浦郡に比定されている)の名にちなむ。長国の名は「日本書紀」に見える。当初は「なが」と濁音で称されていたが,近世にはすでに「なか」と清音で呼ばれるようになっていた(粟の落穂)。郡名は奈我・長などと書かれていたものが,平安期には那賀郡に定着するが,川名は近世まで長川(粟の落穂),長河(阿波志)などとも書かれていた。鷲敷から上流の地域は仁宇谷(にうだに)と一括して呼ばれる。那賀川流域には数多くの人形浄瑠璃のための農村舞台がある。徳島県内に存在が確認された208か所の農村舞台のうち,現那賀郡と阿南市とで約160か所となり,約8割が那賀川流域に集中している。人形浄瑠璃は神社の境内の舞台でその祭礼に奉納されるものであった。この川にも平家伝承が2か所に残っている。木頭村野久保にはウマカケバという平家の武者が馬を走らせた所と皿泉(さらいずみ)という皿を使用した地とがある。また,宇井の内で昔から正月の門松を立てない習慣があるのは,平家の落人が大晦日にやってきたので正月の準備ができなかったのだという。竜と弘法大師(空海)の伝説がある。弘法大師が大竜寺山で修行をしている時に,竜が美女に化けてやってきて修行の邪魔をするので岩屋に封じ込めたという竜の岩屋(鍾乳洞)がある。また,弘法大師の霊夢に,那賀川上流に悪竜が住んで人々に悪さをするので退治せよというお告げがあったので,これを退治したのが木沢村の黒滝寺といい,寺は大竜寺の奥の院で山岳仏教の修行地でもある。那賀川の舟運は高瀬舟によった。近世の中頃から盛んで,上流は上那賀町谷口から下流は那賀郡羽ノ浦町岩脇・古庄,那賀川町中島,阿南市黒津地町であり,鷲敷町がその中継地点であった。明治の初年に鷲敷町だけで約60艘の高瀬舟があった。いずれも長さ10m余,幅2.2m,2人乗りであった。昭和13年に丹生橋が完成して完全に姿を消した。那賀川上流の木材は主に筏に組んで流された。筏は2間の木材を8尺の幅に並べて針金・かずらで編んだものを1連とし,6連を1組とした。前からはな・ぶ(共に1連),もっこ(3連),とも(1連)と呼び,はなとともに舵をつけて2人で操作した。藩政期から行われていたが,大正4年に那賀川運輸団が結成された時は280人が流筏運輸に携わっていた。昭和28年にダム建設による補償が成立した。その時の組合員は452名であった。那賀川の上流の山間部は平地の支配力が侵入し難く蜂須賀氏も阿波入部当時は祖谷地方などとともに那賀山間部の支配に腐心した。そのため阿波九城の1つを和食に置き,那賀山間勢力の備えとした。また山間部の人々は生活を守るための団結も強く,天正13年,宝暦6年,文政2年の3回にわたって仁宇谷一揆が起きた。天正の一揆は蜂須賀氏の阿波入部への反発であり,宝暦一揆は年貢引下げ要求で,文政の一揆は庄屋の不正に対する不満であったが,57か村が結束した大規模なものであった。上流の林業地,木頭地方は我が国有数の多雨地で,流域は度々崩壊や洪水に見舞われた。明治25年の高磯山崩壊はその例である。第2次大戦後,流域は国土総合開発特定地域に指定され,昭和30年代に長安口・川口などのダムが完成して発電を開始し,その後小見野々(こみのの)ダムなどが建設された。その結果,下流では工場誘致をみたが,山間部は国産材不況などのため過疎が進んでいる。那賀川の水害については近世まではっきりした記録は少ない。徳島県の統計書によると,明治33年度の土木災害を吉野川4回,那賀川3回としており,吉野川にほぼ匹敵する水災に見舞われた。ただ平野部に入っての流域面積が比較的狭いために大規模な洪水は少なかった。安永元年那賀川大洪水(木頭村岡田日記),天明8年7月22~25日洪水(那賀教育),天保14年富岡町大洪水床上3尺(元木文書),慶応2年那賀川河口の豊益新田は地面から8尺5寸,富岡町では床上3尺,死人も出た(富岡町誌)。明治25年7月23日の台風で木頭村高磯山が崩れ,人家15戸,65名が埋没した。この土砂は71mの天然ダムとなり那賀川をせき止めその決壊により鷲敷を中心に大被害を与えた。また大正元年,大正7年の台風は那賀川に大洪水をもたらした。川口では6.3m,6.2mと高水位を示した。昭和9年の室戸台風は阿南市・那賀郡で死者9名,傷者104名,家屋全壊699戸,半壊768戸,流失14戸という記録的被害を与えた(暴風雨と水害の被害の比率はわからない)。昭和10年の大雨で那賀川の木材300万材が流失した。昭和14年大雨のため木頭村の助・大久保の地滑りがあった。戦後も昭和25年のジェーン台風,昭和36年の第2室戸台風など,かなりの被害を出している。ジェーン台風では上流の宮浜で18.5m,那賀川橋(古庄)で6.2m,第2室戸台風では宮浜で17.6m,那賀川橋(古庄)で7.38mの高水位を記録している。那賀川もダムが作られ,それによって水位の調整ができるようになったと同時に,ダムの放水操作をめぐって訴訟が起こるという新たな問題も生じている。沿岸を徳島~高知間のルート,国道195号が通じる。鷲敷町百合(もあい)付近の急流は鷲敷ラインと呼ばれ,日本カヌー協会公認のカヌー競技場に指定されている。




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「角川日本地名大辞典」
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