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我拝師山
【がはいしさん】


善通寺市吉原町と善通寺町にまたがる山。標高481m。古くは倭師濃(わしの)山と呼ばれていたという。五岳の主峰で,花崗岩の上に凝灰角礫岩を挟み,讃岐岩質安山岩がのるビュート。讃岐岩質安山岩は造崖層として標高300~400mにかけて急崖を形成し,特に南側の急崖は捨身ケ岳と呼ばれる。出釈迦寺寺伝によると,空海が7歳の時,この断崖から捨身誓願をたてて身をひるがえしたところ,願いどおり釈迦如来が来臨した。空海はともに現れた天女によって救い上げられたとされる。この時空海が釈迦如来を拝したことから我拝師山と呼ばれるようになったという。当地を訪れた西行は「山家集」にその由来を「大師の御師に逢ひまゐらせをりましたる峰なり……その辺の人は〈わがはいし〉とぞ申しならひたり……又筆の山とも名づけたり」と記し,「筆の山にかき登りても見つかるかな苔の下なる岩の気色を」と詠み残したが,これは当山と筆の山を混同したものであろう。捨身ケ岳は霊場とされ,近くには鎖場が2か所ある。また,西に連なる中山との鞍部のやせ尾根上には出釈迦寺の奥の院の禅定寺があり,付近一帯が修験地のたたずまいをみせている。禅定寺へは南麓の北原からも登れるが,北麓の四国霊場八十八か所第72番札所の真言宗我拝師山延命院曼荼羅寺と同第73番札所我拝師山出釈迦寺(真言宗)を経由するのが一般的。出釈迦寺から禅定寺までの急坂は世坂と呼ばれ,「山家集」は「まんだら寺の行道どころへのぼるは,よの大事にて,手をたてたるようなり」と伝え,「南海流浪記」は「其ノ路嶮岨嵯峨トシテ,老骨攀躋シ難イ。只人ニタスケラレテ登リ至ル」と記す。現在山麓は南北両側ともミカンを中心とする果樹園になっている。昭和41年,北麓からミカン園開墾中に流水文銅鐸が出土,その鋳型が同48年大阪府茨木市東奈良遺跡で見つかり,さらに大阪府豊中市桜塚出土の銅鐸と同笵関係にあることがわかり注目を集めた。また,この銅鐸出土地の東250mから,昭和9年に平形銅剣4口,西150mからも同14年に1口出土している。




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「角川日本地名大辞典」
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