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石鎚山
【いしづちさん】


石鎚山・石土山・石鉄山・石鈇山とも書き,「いしづちざん」「いしづちやま」ともいう。四国の脊梁をなす石鎚山脈の主峰で,西条市・周桑(しゆうそう)郡小松町・上浮穴(かみうけな)郡面河(おもご)村との境界にそびえる山。三角点は頂上の三の鎖を下った標高1,921mの所にある。頂上は石鎚神社の頂上社のある弥山(みせん)の南東約200mに突出する天狗岳で標高1,982mあり,西日本の最高峰。眼下に西条市や周桑平野・瀬戸内海を望み,遠く中国の伯耆大山,九州の九住山,さらに太平洋まで望見できる。山頂は北西から南東に走る約400mの細長い岩稜からなり,周囲は100m近い断崖絶壁となっている。この岩峰は基底の結晶片岩を貫いて噴出した安山岩からできており,この安山岩が垂直に近い柱状節理を作っている。そのため石鎚山の姿は北側の西条市から眺めると屏風を立てたように見え,南側の石鎚スカイラインから見上げると南尖峰が槍の穂先のように尖って見える。山頂は急峻で,北側の岩場には3つの鎖がとりつけられており,一の鎖は長さ約27m,二の鎖約49m,三の鎖約62mの鉄鎖をつたって頂上に達する。標高1,700m以上には亜寒帯性植物のシコクシラベ・ダケカンバの純林やシャクナゲの群落がある。石鎚の名は頂上の岩峰の形を石鎚と見たてたものといわれるが,一説によると「ツ」は「之」の意味,「チ」は霊力を持つ神や物につく接尾辞の古代語「霊・チ」で,石之霊(いしづち)ともいう。8世紀前半に伊予の湯に来た山部赤人は,「万葉集」巻3で「伊予の高嶺」である石鎚山の秀麗な姿を賛美しているが,この石鎚山は,日本最古の仏教説話集の「日本霊異記」にはじめてその名をあらわす。それには伊与の国神野郡内に山があり,石鎚山と名づけられていた。その名は,その山に鎮座する石槌の神に由来すると記す。「古事記」に見える石土毘古神がそれに当たると思われる。また凡夫はその山に登りえず,浄行の人のみ登って居住するとあり,聖武・孝謙朝に寂仙という修行僧が当山で修行したという。なお「文徳実録」には,同様の伝承を載せるが,それは寂仙という修行僧ではなく,灼然とする。空海もその著「聾瞽指帰」に「或ハ石峰ニ跨リ糧ヲ絶テ轗軻タリ」と記すが,この石峰に「伊志都知能太気」という訓みの自注を加えているので,空海も青年のころ,当山で修行したことはほぼまちがいない。平安末期にはすでに熊野修験の影響を受け,「長寛勘文」には石鎚山に熊野権現が祀られたと記し,また「梁塵秘抄」には,大和の大峯山・葛城山などとともに著名な修験者の行場として当山があげられている。古代には,笹ケ峯・瓶ケ森の方面が石鎚信仰の中心とする説,あるいは東西2つの霊域を想定する説があって確かでない。平安中期以前に神仏習合が行われたと考えられ,山岳信仰特有の金剛蔵王権現・子持権現などが祀られた。それと同時に天河寺・前神寺・横峰寺・吉祥寺などの別当寺が建立されたとみられる。鎌倉期には,役小角の開基伝説が発生したし,各地の役小角の関係の山々や厳島などとの関連が説かれるに至った(金峰山創草記・厳島縁起)。南北朝期から戦国期にかけて前神寺の勢力が台頭し,全山の支配権を掌握したらしい。文明9年,前神寺別当の良真(越智郡朝倉住人長井弾正忠の子)の発願によって,当山山頂の弥山に蔵王権現社の本殿が造立されたが,その扉に名を連ねたのは,新居郡守護の細川勝久,河野通直・通春・通生の河野一族らであり,特に河野通直と通春は応仁の乱以前から対立関係にあったことからすると,石鎚信仰がそのような対立を超越した広がりをもつものであった証左となる。その後も石鎚山麓の新居郡代石川氏,周布郡・桑村郡に勢力をもつ黒川氏,天正年間には来島村上氏の保護をうけて発展した。江戸期には,西条藩・小松藩という山麓の諸侯の篤い庇護のもとに信仰の広がりが見られ,一般民衆の登拝の風潮が高まり,石鎚山配下の先達寺院の増加,石鎚登拝の講の結成がみられ,鎖が岩場につけられたのも近世期という。明治初年の神仏分離で別当寺のうけた打撃は大きかったが,明治末には復旧し,石鎚神社・前神寺・横峰寺は多くの信者をあつめ,第2次大戦後,石鎚本教をはじめとする数多くの教団が結成された。参詣の信者は「ナンマイダンボー」(南無阿弥陀仏)と唱えながら登る。また登山道も王子参道と呼ばれ,菩薩の一族である三十六王子が祀られている。明治4年神仏混淆が禁止され,頂上および成就社とその間の参道は石鎚神社の境内となり,同神社は石土毘古神を祀るようになったが,神仏混淆思想は現在も残っている。石鎚登山は全国各地の石鎚講の信者が主体であったが,大正初期ごろから一般の人の登山も始まった。西条方面から登る道を表参道,面河側から登る道を裏参道という。表参道沿線の今宮や黒川には,石鎚信仰の登山客を泊める旅人宿(季節宿)があり,お山市の7月1日から10日までは大勢の信者でにぎわう。昭和43年に西之川下谷から成就社下までロープウエーが開通し,これにより約3時間半で登頂が可能になるとこちらが表玄関となり,旅人宿も減少した。一般登山が盛んになるのは第2次大戦後で,昭和27年に愛大小屋が面河山に建てられた。昭和45年には県営石鎚スカイラインが開通し,土小屋が石鎚登山の基地となった。石鎚山を中心とする縦走路が発達し,東の瓶ケ森(1,897m)との間の縦走路が最も一般的である。西は二ノ森(1,929m)・堂ケ森(1,689m)を経て保井野(ほいの)へ下る。山小屋には山頂小屋・二の鎖小屋があり,成就社の境内旅館は5軒,土小屋にも国民宿舎など3軒ある。昭和30年11月石鎚山・面河渓谷を中心に石鎚国定公園に指定。




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「角川日本地名大辞典」
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