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小田深山
【おだみやま】


上浮穴(かみうけな)郡小田町の奥地,仁淀(によど)川の支流菅行(すぎよう)川沿いの国有林地帯。国有林の面積は4,500ha。かつては天然広葉樹におおわれていたが,明治中期以降植林が行われ,現在はスギ・ヒノキの人工林が90%を占め,天然林は渓谷沿いと,植林不適地に一部残存するのみである。木材の蓄積量は61万m(^3),年間の伐採量は2万5,000m(^3)であり,森林資源の宝庫である。現在は明治・大正年間に植林された人工林が伐採され,その跡地が再造林されている。伐採された木材は,明治・大正年間には標高980mの「くらがり峠」を越えて,小田川沿いの蔵谷(くらがたに)土場に搬出された。そこからは小田川を管流しされ,田渡(たど)川との合流点突合(つきあわせ)で筏に組み,肱川河口の長浜に流送された。大正12年に小田深山の中心地淵首(ふちくび)から,小田川沿いの宮原に,獅子越峠(標高約1,000m)経由の森林軌道が敷設された。以後木材はこの軌道をトロッコで宮原土場に搬出される。当時は小田川沿いにも車道が開かれていたので,宮原土場からはトラック輸送と,流送の併用となる。第2次大戦後,久万(くま)町の落合から大野ケ原に通じる旧砲車道が改修され,木材は久万方面へのトラック輸送が多くなる。獅子越峠経由の森林軌道は昭和27年廃止となる。隔絶山村の小田深山は平家の落人伝説を伝え,また木地師の定住地でもあった。藩政期には大洲藩領となり,毎年1回は家臣の巡回があり,その宿泊所が温水(ぬくみず)にあった。「大洲旧記」によると,元和の初めころ中川村の庄屋大野仁兵衛が,大瀬熊野滝の百姓を連れ,深山開拓を願い出て,42軒の家を建て,42石と定めて入り作りしたと記録されている。また,泉賢盈所蔵の明治12年の古記によれば,12戸の人々が木地挽を営んでいた。その内訳は六郎に2戸,桜ケ内に2戸,六本橡に1戸,桶小屋に1戸,平川に5戸,柾小屋に1戸である。現在の集落は,桶小屋・淵首・六郎にあり,75世帯・176人が居住し,すべて国有林の林業労務に従事する。その中に返脚(へんきやく)姓があるが,これは木地師の子孫であり,伝説によれば,木地師小椋某の家で菊の紋のある惟喬親王の系譜が発見され,あまりにおそれおおいので,その系譜を返し,小椋の姓を返上して,以後返脚と名乗ったという。小田深山の地質は秩父古生層からなり,千枚岩とチャートが互層をなし,その間に石灰岩も挾在する。硬岩のチャートは断崖や峡谷を形成,石灰岩は鍾乳洞を形成し,ともに景勝地をみせる。植生は渓谷沿いに天然林が保存され,カエデ類とカツラが多い。秋には見事なモミジの錦を織りなす。また,六郎付近には四国唯一のシラカバ林も見られる。生息動物で特徴的な点は,イノシシ・サル・ムササビ・ヤマネなどの哺乳類が多いことと,渓流にハコネサンショウウオが生息し,アメノウオが多いことである。渓谷美と新緑・紅葉の美しいこの地は,また観光地でもある。主な景勝地は上流から鬼ケ臼渓谷・犬帰り滝・深山洞・雨霧洞・安芸貞淵(あきさだのふち)・五色河原・藤見河原・柾小屋渓谷などである。探勝の中心地の安芸貞淵より藤見河原の間には遊歩道もあり,その間には小田町観光協会経営の宿泊施設小田深山荘もある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7200725