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道後
【どうご】


旧国名:伊予

(古代~中世)平安期~戦国期に見える総称地名。越智(おち)郡に国府の留守所が設置されてのち,道前とともに設けられた伊予国行政2区分の1つで,当初野間郡以西9郡をさしたという説がある(伊予地名雑考)。長寛2年12月の弓削島(ゆげしま)荘住人等解(東寺百合文書/日本塩業大系1)に,伊予国の「両目代」および「道前之方御目代」の文言が見えることから,平安末期には道後という行政区分が存在し,目代が設置されたと推定される。「平家物語」「源平盛衰記」に「道前・道後の境なる高縄の城に引籠る」という記事が見える。治承5年2月17日,河野通清は,風早郡の高縄城に拠って反平氏の旗を挙げたという。風早郡が道前と道後両地域の境界をなしたとみられる。また鎌倉期以降和気郡以西7郡を道後とする説(伊予地名雑考)はおそらく「築山本河野家譜」所収元暦2年7月28日の源頼朝書状,建保6年と推定される5月4日の在近衛中将(源実朝か)書状に見える河野通信の道後7郡管領(守護職)の記事にもとづくと思われるが,それは元久2年閏7月28日の河野通信の伊予国御家人32人沙汰を命じる関東下知状とともに偽書説が有力なので,河野氏の道後7郡支配,および道後7郡説は検討の余地がある。風早郡以西の伊予郡に至る6郡をさして道後といったものか。戦国期には,広域地名としての道後は依然として残存するが,それとは別に「道後湯月城」などと,河野氏の本城湯築城に道後を冠する例がみられる。湯築城をさして「道後」と称するに至ったものであろう。さらに慶長5年の「関ケ原軍記大成」に「道後山」「道後村」などという記載があるので,道後を現松山市内の一地域に局限するようになったのは,近世初頭以降と推測される。この地域には河野氏の発祥地風早郡河野郷もあり,同氏の勢力圏をなした。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7202245