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別子銅山
【べっしどうざん】


新居浜(にいはま)市南部の立川(たつかわ)山から宇摩(うま)郡別子山(べつしやま)村の西部にまたがる旧銅山。住友財閥と工業都市新居浜の発展の源となった。元禄3年銅鉱脈発見,翌年住友家による採鉱開始から昭和48年3月閉山まで282年間の採鉱量は2,500万t,産銅量は70万tに及んだ。採鉱されはじめた鉱脈が,赤石山系の銅山越(1,291m)の山頂に近い南側にあったため,別子山村側の東延(とうえん)・本舗(ほんじき)一帯(旧別子)が最も早くまた長くその中心であった。開坑以来たびたび風水害・火災に遭って多くの死者を出し,何度か壊滅状態にもなったが,操業は拡大し,最盛期には人口1万人余を数えた。集落は,小足谷(こあしだに)川(銅山川支流)に沿った海抜900~1,250mの急斜面に階段状に並び,役場・小学校・銀行・病院・郵便局・劇場・料亭・醸造所などもあった。当時は木炭で製錬したので,周囲の森林は伐採され,煤煙がたちこめるあたり一面,赤茶けたはげ山で,このため水害がたびたび起こった。また,鉱毒水が銅山川に流れ込んで死の川にし,流域の耕地に被害を与えた。さらに山林をめぐって,地元の別子山村民との対立も生じた。現在,別子山村内の山林の60%強は,住友林業の社有林である。製錬した荒銅の搬出と必要物資の搬入は困難を極め,遠路すべて人力とソリによった。しかし,明治13年に東延~立川間に牛車道が,同24年に石ケ山丈(いしがさんじよう)~端出場(はでば)間に索道が,同26年に角石原(かどいしはら)~石ケ山丈間および端出場~惣開(そうびらき)間に鉱石輸送鉄道が敷設され,状況が一変した。角石原~石ケ山丈間の上部(じようぶ)鉄道は,日本最初の山岳鉄道であり,国鉄予讃本線が新居浜に開通するより約30年早かった。一方,鉱毒水は国領(こくりよう)川にも流入して,下流域の田畑を汚染した。また,明治19年建設の山根製錬所と同26年建設の惣開製錬所からの煙害は,新居浜平野全域に及んだ。激しい住民運動の後,同38年燧(ひうち)灘の四阪島に製錬所が移転した。鉱山の歴史が長くなり,深い位置の鉱脈が採掘されはじめると,鉱業施設も下方に移転させざるをえなくなり,大正5年には,銅山越の北方,海抜650~800mの東平(とうなる)に採鉱の中心が移った。当時の戸数691・人口2,000人余。ここも急傾斜地で,トタンぶきの社宅が階段状に並んでいたが,製錬所がないため煙害もなく,大正年間は栄えた。昭和2年海抜170mの端出場に選鉱場が完成すると,採鉱の中心はここに移動し,付近の鹿森(しかもり)・打除(うちよけ)などの鉱山集落には,瓦ぶきの社宅が並んだ。鉱石は,住友専用鉄道で新居浜市街地の星越(ほしごえ)選鉱場に送り,そこから銅精鉱を四阪島製錬所に運んで粗銅とし,再び新居浜に運んで電気銅に精錬していた。しかし採掘条件が悪化し,輸入鉱石に比べてコスト高になったため,昭和48年全山が閉鎖された。現在では,旧別子・東平・端出場ともさびれ,鉱石運搬鉄道も撤去され,旧別子では山が自然にかえりつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7202967