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鏡川
【かがみがわ】


鏡川水系の本流。2級河川。高知市の市街部を東から西に貫流する。流路延長31.1km,流域面積170.0km(^2)。土佐郡土佐山村細藪山北斜面に源を発し,西川川・高川川・東川川などをあわせて西流。同郡鏡村境で南に向きを変え曲流,同村川口で吉原川を加え,さらに南流し,高知市朝倉宗安寺で平野に出,朝倉米田付近で流路を東に変え,高知市街を貫流,旧高知城下郭中西端付近で南西から流れてきた神田(こうだ)川をあわせて浦戸湾に注ぐ。上流は工石山と細藪山の間の石灰岩地を流れ,吉原川をあわせる中流部付近では川幅を広げ,篏入蛇行が著しく,河岸段丘の発達もみられる。下流部では朝倉地区~旭地区に至る扇状地を形成,流量の多くは朝倉地区付近で伏流する。旧高知城下町の範囲に対応する三角州およびその先の江戸期以降の干拓地を経て河口に至る。このため下流の河床勾配は緩く,河口~旧沈下橋(神田川流入点)間の約3kmは平均河床勾配2,000分の1,平均川幅130m。浦戸湾を経て海につながるため,この区間は感潮河川となっている。かつて鏡川は扇状地部分にあたる朝倉・鴨部・旭地区付近でかなり乱流していたと考えられ,旧流路跡も多い。江ノ口川上流も鏡川旧流路の1つが利用されたものとも考えられる。天正15~16年の大高坂之郷・潮江郷・鴨部之村の地検帳によれば,現在の江ノ口川は「大川」とあり,現在の鏡川下流河口付近には「潮江之川」「潮江川」「潮江福良川」の記載があるほか,朝倉~旭付近では「いづみ川」の記載もある。鏡川を指すとみなされる部分称には,ほかにも鴨部付近での雁切川・鴨部河(川)・鴨目川(土佐国白湾往来/皆山集),尾立(ひじ)村での大川(南路志)などがあった。現在の名称は5代土佐藩主山内豊房の命名と伝える(土佐国白湾往来/皆山集)。城下町絵図類では天保年間のものに「鏡川」の記載が見られ,それ以前は潮江川と称されている。鏡川は31.1kmの短小河川であり,上流は勾配がきつく,台風などの降水期には,三角州上に立地した高知市街地は,古来,洪水の危険にさらされてきた。江戸期の高知城下町も何重もの堤で囲まれ,いわば,輪中の町であった。鏡川沿いの要所には水丁場が設けられ,水防組もつくられ,神田川流入点対岸には水流をはね返す「ハネ」も設置され,堀や水路は排水路機能を兼ねていた。一方,城下町対岸には水越堤が築かれた。江戸初期には杓田付近から上町,水通町へ用水を分流,寛文年間には郭中堰を設け,幅5尺・長さ8丁16間の水路を開き郭中飲用に用い,ほかに江ノ口堰・鴨田堰も造られた。近代に入ると,鴨田・旭地区などに伏流水を利用する製紙業などの工場立地もみられた。昭和42年には洪水調節,高知市の上水道,工業用水の確保,発電を目的として鏡村今井に鏡ダムが建設され,さらに同53年には都市用水の需要増のため吉野川水系瀬戸川・地蔵寺川からダムへの分水が開始された。なお,高知市の上水道は鏡ダムで水量を確保したうえ,郭中堰やや上流と朝倉堰で取水されている。治水対策にもかかわらず江戸期以来,破堤・洪水の記録をみ,ダム建設後でも昭和45・50・51年の台風時に市街地が冠水,大きな被害がもたらされた。自然条件に加え,都市化の進展に伴う田地・堀などの減少,流入河川改修の進展,浦戸湾埋立ての影響なども水害ポテンシャルを高めたと考えられている。鏡川の清流は古来,歌にも詠まれ,真西堂如淵の「吉良物語」の吸江山花見の事に「鏡川岸の藤浪立添ひて都の花の影やうつらふ」の歌が載っている。鹿持雅澄の「山斎集」をみると,「鑑河浅湍之浪乎脛爾上而伊渡為子者誰思妻」(鏡川浅瀬の波を脛にあげていわたらす子は誰が思ひ妻)や,「思子之影哉所見跡鏡河河之瀬不落益河上」(思ふ子が影やみゆると鏡川川の瀬おちずいや川のぼる)などがある。大正7年5月14日,38年ぶりに高知へ帰ってきた大町桂月は,鏡川の清流を絶賛し,「三十八年ぶりの故郷」に「鏡川の湄,筆山の麓,天満宮巍然として光彩を放つ」と記している。古くは,物部川が香我美郡(香美郡)にあることから「かがみ川」(鏡河)と呼ばれたり,高岡郡須崎の川も鏡川と称された。吉田孝世の「土佐物語」の所々一見の事では「当国にかゞみ川とて,古より言習せる名所あり。……是香美郡にある川なればとて,こざかしき男のいへる事なり。かゞみ川は,高岡郡須崎にありと,古き説なりとかや」と述べている。江戸期,河原は納涼の地としてにぎわったとされるが,浦戸湾の汚濁に伴い,下流部はかつてほどの清流は失われたが,現在でも,風光のよい河畔は旅館・ホテルが集中し,ボートが浮かび,鏡川祭り・花火大会も行われる市民の憩いの場として機能している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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