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高知平野
【こうちへいや】


県中央部にあってほぼ東西方向に細長く発達した平坦低地。最大の範囲でとらえる場合,その東端は香美郡土佐山田町神母ノ木(いげのき)付近と香宗川下流の同郡香我美町低地を結ぶ線から,西端は仁淀川下流の吾川(あがわ)郡伊野町波川付近と土佐市高岡地区の平野部を結ぶ線まで。行政上は高知市・南国市を中心に,西側は土佐市,吾川郡伊野町・春野町,東側では香美郡土佐山田町・野市町・香我美町・赤岡町・夜須町・吉川村などが含まれる。この場合,高知市を中心とする旧土佐郡の部分の土佐平野,東部の香長平野,西部の弘岡・高岡平野,伊野付近の低地などに分けることもある。しかし,一般的には鏡川下流の高知市朝倉付近から東をもって高知平野としている。この高知平野の構造上の特徴は東西方向に発達した地溝状の凹部を示していることである。その東部は物部川の搬出してきた砂礫が土佐湾頭付近にまで堆積して形成した扇状地性平野が南に向かって開けている。この高知平野東部の旧香美・長岡両郡にわたる地域を香長平野と呼称する場合も多い。西部は鏡川を中心に中小河川の搬出してきた土砂が盆地状凹地に堆積して形成された複合三角州性平野である。この西部を特に狭義の高知平野として区分する場合も近年みられる。狭義の高知平野の範囲はその北辺を区切る小起伏性の北山山地と南側の仏像構造線(大きな断層線)の間の東西方向にのびた沈降地帯,その西端は朝倉丘陵,東は大津,介良(けら)の小丘陵付近までである。高知平野は,この地溝状の盆地に北側の山地から流出している鏡川・久万川・国分川などが長期にわたって運搬してきた土砂礫を堆積して形成された平坦低地である。その結果表面の微地形は,鏡川の朝倉地域や久万川の万々地域にみられる扇状地,それに続く高知城周辺一帯の自然堤防地域,さらに浦戸湾に流入する各河川がその河口付近一帯に複合的に形成した三角州地域などで成り立っている。それらは標高約10mから0mにかけてその傾斜が漸次低下しているが,標高2m以下の低地は平野の約8割を占めている。特にゼロメートル地帯の分布は三角州地域の半分,約11km(^2)の広さにわたっている。このような表面地形を作り出すもとである地下の未固結な地層(第四紀層)は,洪積層と沖積層からなっている。その下部には主として秩父帯中帯の高岡層・伊野層などに分類されている凹凸の激しい基盤岩類が分布している。この上にのっている第四紀層は,朝倉付近の扇状地地域で約30~40m,浦戸湾頭の三角州地域下では約100~140mの厚さがある。そのうち今から約1万年前から現在までの間に堆積した沖積層は,朝倉・万々などの主として砂礫からなる扇状地下で10~15m,高知市役所付近から播磨屋橋付近にかけての20~25m,下知,潮江の三角州地域下では約30m前後の厚さになっている。全体に沖積層は東西方向・南北方向ともに浦戸湾頭に向かって厚くなっている。沖積層の大半は内海性の貝殻を含む泥質な軟弱層からなっているが,そのほぼ中間に今から約6,000年前降下堆積した喜鬼カルデラ噴出の火山灰が数mの厚さで灰白色の砂質シルト層となって挟まっている。洪積層は主として古い河川による運搬物と考えられる砂礫層と,内海性の沈澱堆積物とみられる泥質からなっている。洪積層は全体の厚さがところによって異なるが,ほぼ10mおきに砂礫層と泥質層が交互に重なっている。数十万年の間の堆積物であるため風化は進んでいるがよく締まった地層である。その最上位の砂礫層上面は沖積層基底面と接していてその深度は,播磨屋橋付近で25m前後である。この洪積層の最上位砂礫層は,高知市の中央市街地一帯でビル建設の支持層として,また地下水汲揚げの対象層として活用されている。なお,平野周辺の万々,城山などの丘陵端には洪積層の一部がかつての段丘として名残をとどめている。しかし大半の段丘は埋没化して沖積層の下に残存している。それは和泉,愛宕,城北,上町などの地下約10mぐらいから下,さらに高知城の南側から追手筋にかけて,潮江天神町付近などでは深度20mより下方に半ぐさりの円礫を中心に比較的硬い砂礫層として段丘状に分布している。そして埋没段丘の間を縫うように古い鏡川や久万川の刻み込んだ谷の跡が埋められている。国分川下流域にもほぼ同様の埋没段丘と谷がある。さらに平野内地表面には,葛島・比島・洞ケ島・竹島など数千年前の浦戸湾が拡大していた時代から数百年前までの間,湾内に島として点在していたものがある。これらは地下に埋もれている数個のものとともに平野の基盤である起伏の激しい岩盤の形成した小山の山頂部であり,かつての島が丘陵として残された部分である。五台山は旧名大島で,平野内ではその最大のものである。高知平野の三角州地域,特に浦戸港頭付近一帯に近年顕著な地盤沈下現象がみられる。その結果いわゆるゼロメートル地帯が出現し社会問題化している。これは第2次大戦後の日本の臨海工業都市地域に共通する傾向である地下水の過剰汲揚げに起因するものが主であるが,高知平野の場合は特に沖積層の厚さが30m足らずで,北四国低地などに比べても薄くほとんどが泥質物で占められている。このため,丸池町を中心に昭和50年から同56年の6年間で最大12cm沈下するなど,沈下速度は速く回復は不可能に近い。このような軟弱地盤地帯は古くから津波・洪水・異常高潮・集中豪雨などによってしばしば冠水してきたことが記録に残っている。代表的なものとして,宝永4年の宝永地震津波,安政2年の高潮,昭和21年の南海地震津波などがある。記憶に新しいものとしては昭和45年8月21日の台風10号による浸水があり,高知平野の約80%が冠水し,多大の被害が生じた。平野は,土佐湾沿岸部を走る年平均気温16℃の等温線内に含まれ,最寒月の1月の平均気温は5.6℃,最暖月は8月で,平均気温は27.1℃であるが,1月の最低気温0.5℃,最高気温11.7℃で,冬季における日中と夜間の温度較差は比較的大きい。降水量は,年2,665.8mm,6・9月に降雨量が最大で,4月も比較的降雨が多い。日照時間は,年2,300時間程度で長く,11~2月,8月の不照日数は4日未満で,特に冬晴天に恵まれる(以上の数値は高知気象台観測の昭和26~55年の平均)。降雪も少なく,積雪はほとんどみない。全国的にも有名な台風銀座で,通過・接近の頻度も高く,多量の降雨を伴うことも多い。特に,昭和51年9月の月間降水量1,417.5mm,同月11日の377.0mm,12日の524.5mmは台風17号の影響で,特に後者は日降水量として明治以降の観測史上の記録。高知平野には,先土器時代以来の遺跡が分布し,特に農耕の進展した弥生時代以降,土佐における居住・生産の中心となり,遺跡の集中度がきわめて高くなる。弥生時代の遺跡として,早くから知られている竜河洞の住居跡や最近発掘をみた南国市田村の埋没水田跡などが有名。青銅器時代には高知平野は畿内・北九州両文化圏の交錯地として知られ,以東の銅鐸,以西の銅矛分布に特色がみられる。平野の縁辺部,特に南国市から土佐山田町にかけて,平野の北縁,山地の南麓部に古墳が集中集積するほか,平野内に点在する丘陵部にもその分布がみられるが,6~7世紀頃のものが多く,この時期には,高知平野を中心に,生産の集中や生産力の高まりのあったことが知られる。前述のように,平野内は,沖積性低地(扇状地性低地,三角州),洪積台地(古扇状地),干拓地から構成されるが,耕地としての開発の時期も,この3類型と対応している。大部分を占める沖積性低地は,物部・国分・鏡・仁淀・香宗・夜須などの各河川下流に分布し,物部川下流の旧氾濫原に近い田村遺跡では,弥生時代から水田化されていた。さらに,こうした低地には,現在も条里制遺構の分布が顕著で,古代律令制の土佐への浸透とともに開田化や,耕地整備が進んでいたものとみられる。特に,香長平野を中心とする東部においては,少なくとも8世紀中に,統一的な条里制が施行されたものと推定され,旧長岡・香美両郡境も条里基準線が利用されている。国分川の中流部,平野のほぼ中央の北部にあたる旧長岡郡国府村(現南国市)に国府や国分寺も設置された。平安期にも,土佐の延喜式内社21社中11社,また「和名抄」の43郷中30郷がこの平野に分布し,生産・居住の集中化が知られる。一方,「土佐日記」の時期,国府の外港が大津にあったように,浦戸湾は平野部に奥深く湾入していたが,戦国期末から江戸期にかけて,組織的干拓が進み,明治初頭には,昭和35年以降の埋立て以前の浦戸湾の形態に縮小していた。一方,物部川下流両岸に発達する長岡・野市両台地面は,部分的には古代から居住がみられ,戦国期末にも,開拓が手がけられていたが,江戸初期の野中兼山による郷士新田として大々的に開田化され,開発が急速に進んだ。東部の香長平野や西部の弘岡平野の舟入川・新川川などを中心とする灌漑水路網の整備,物部・仁淀両河川流域と高知城下との水運による連結などもあって,野中兼山時代における高知平野の整備,いわば近世的総合開発も著しかった。中世末,土佐統一を成し遂げた長宗我部元親の居城は,旧国府のすぐ西の岡豊(おこう)山にあったが,天正16年,元親は鏡川三角州上の孤立丘陵大高坂山に居城を移し,近世的城下町建設を始めて以後,高知平野の政治・経済・文化の中心は浦戸湾西岸の鏡川流域に移った。江戸期,土佐藩主山内氏もこの地に高知城下町を経営し,近代以降の高知市街中心部に継承されている。古来,人口が集中し,開発の進められてきた高知平野は,土佐における農業の中心地帯で,近代に入っての水稲二期作,現在の施設園芸の盛んな地域として知られる。二期作は,早稲など品種改良もこの地域で進んだ明治末期から大正期にかけて普及し,昭和10年前後が最盛期で,食料不足の第2次大戦後も,昭和20年代は盛んであったが,以後衰退,特に米の生産調整政策の採られた昭和40年代には激減,昭和50年代に入ると,その名残がわずかにみられるのみとなった。蔬菜の促成栽培も江戸後期(18世紀末),浦戸湾東部の種崎で始まったと伝えられるが,明治末期から普及しはじめ,沿岸漁業の不振,塩浜の廃止,桑園の衰退などの要因が重なり,平野南部の土佐湾岸の砂丘地で,昭和初期までに普及していた。第2次大戦後の昭和30年代に入ると,ビニールハウスの普及,重油ボイラーによる加温など技術面の発達も著しく,大都市圏市場の拡大,トラック・フェリーなど輸送交通手段の発達と相まって,生産地は高知平野内陸部へも拡大し,冬場の阪神・京浜市場で独占的地位を占めた。その後,競合産地の出現で,大都市市場における冬場の蔬菜占有率は相対的に低下したが,北海道から北九州まで市場を拡散させつつ,施設園芸は,高知平野の農業の中核として発展している。ナス・キュウリ・ピーマンのほか,シシトウガラシ・ニラ・早掘り甘藷・スイカ・メロン・ショウガなど多様な品目が,促成・半促成・抑制などの多様な栽培方法が組み合わされている。さらに,早稲・跡作稲などの水稲作との複合経営がなされ,戦前からの共同出荷体制も特色がある。このほか,土佐山田町・南国市の長岡台地を中心とするタバコ,土佐市の藺草などの工芸作物や,果樹では南国市十市(とおち)のヤマモモ,土佐市・香我美町の土佐文旦,高知市朝倉の新高梨などの特産もある。県下の工業生産もまた,高知平野と須崎市に集中集積している(出荷額の70~80%)。近世から昭和30年代まで全国に名をはせた手漉和紙業から発展した伊野町・土佐市を中心とする製紙業,近世以来の浦戸湾の造船業,土佐山田町・南国市中心の土佐刃物,高知市・土佐市宇佐地区・須崎市の水産加工(かまぼこ・ちくわ・かつお節)などの伝統工業からの発展に特色がみられる。木材・石灰・セメントなど背後の丘陵や山地の原料を利用した素材加工型の工業も,近世以来の伝統をもっているが,セメント工業は,県外資本の大工場生産で,須崎港・高知港などの臨港に立地している。このほか,南国市の農業機械・銃砲,高知市の紡績・電気化学などの工業もみられる。高知平野の中でも,高知市に出荷額の過半が集中している。商業・交通も高知市を中心に集中し,都市的集落も高知市街地を中心に,赤岡・野市・土佐山田・後免(南国市)・伊野・高岡(土佐市)などの在郷町が分布し,高知市からこれらの中心地を経由する国道32・33・55・56号などが通る。国鉄は須崎―高知―土佐山田間が,土讃本線開通以前の大正14年までに開通していたし,私鉄電車線(現在の土佐電鉄)が,伊野―高知―後免間の平野を東西に結んで明治末以来通じている。浦戸湾奥の高知港,物部川河口部の高知空港(南国市)などの県の海や空の表玄関も所在する。高知市には県庁,国の出先機関など行政機関のほか,大学をはじめとする教育・文化などの機関の集中もみられ,病院など医療機関の集中も著しい。このように,高知平野は,古来,土佐の政治・行政・経済・文化・教育などの中心地として発展し,県内におけるこの平野へのこれらの機能の集中度の著しさ,強まりはきわめて特徴的である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7205569