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加唐島
【かからじま】


東松浦郡鎮西(ちんぜい)町にある島。東松浦半島西北端の波戸(はど)岬から北へ3.5km隔てた玄界灘の離島である。周囲12km,面積2.81km(^2),人口421(昭和50年)。呼子(よぶこ)港から航路約7km,定期船で40分かかる。島の西半は粗面岩および粗面安山岩で,東半は玄武岩類でおおわれる溶岩台地であるが,浸食が進み平地に乏しい島である。「日本書紀」の雄略天皇5年の条に「六月丙戌朔,孕婦果して,加須利君の言ひし如く,筑紫の各羅島に於て児を産む。仍りて此の児を名づけて島君(せまきし)と曰ふ。是に於いて,軍君即ち一船を以て島君を国に送る。是を武寧(むねい)王と為す。百済人此の島を呼んで主島(にりむせま)と曰ふ」と記している。各羅島は「太宰管内志」に「各羅島の各羅は加々良とよむべし」とあるように加唐島に比定される。当島の伝説によれば,新羅征討の時,妊っていた神功皇后は,この島で着帯式を挙げたが,帯祝いのあった浦がいま「おびやが浦」「胞衣(おびや)の鼻」として残っているという。「日本書紀」の伝説とあわせて,玄界灘の離島であるこの島は往時朝鮮との往来に,しばしば利用されていた実情が知られる。「肥前国風土記」の値賀(ちか)の嶋の項に「西に船を泊つる停(とまり)二処(ふたところ)あり。……一処の名は川原の浦といひ,一十余の船を泊つべし。遣唐の使,この停より発(ふなだち)して」とあるが,川原の浦をこの島に比定する説もある。下って,文禄3年岸岳城主波多三河守は,豊臣秀吉の怒りに触れ,家は断絶し,家中は四散したが,その重臣が家来を連れて,当島に隠れ住んだという。島内に波多一族の墓形がその名残をとどめている。藩政期に入り,「慶長国絵図」に賀良島,「正保国絵図」に加唐島と記し,その他の記録には加々羅島と記されている。「松浦古事記」に「加唐島 津守二人 足軽二人」とある。口伝によれば,対馬(つしま)藩主宗氏が参勤交代に向かう途中,この島付近の瀬に漂着しているのを,島民が救助した。それに対し,その労に報いるとともに宗の姓を名乗ることを許した。今も残るこの島の宗姓は,当時の救助者の子孫であるという。島人はその瀬を対馬瀬と呼び,島の西側にある。また,唐津藩主土井氏の時,江戸城の殿中で藩主がこの島を「領内には,周囲三里の天然の岩をもっているが,これ程の岩は全国にも持ち合わせはあるまい」と自慢したと伝える。当島は火成岩よりなり,南部の集落加唐島と北東部の大泊付近を除いては,断崖絶壁をなし,玄界灘の激浪に屹立するのは壮観である。また北岸は玄武岩の柱状節理が見事で,全島が玄海国定公園の中に含まれている。産業としては,一本釣りを中心とした漁業のほか,畑作物,ツバキ油の生産がある。昭和53年4月,島の青年たちの運動が実り,水産庁の事業として進められていた「漁村環境改善総合センター」の建設が完成した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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