100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

嘉瀬川
【かせがわ】


県北部背振山地の金山(かなやま)(967.2m)付近に源を発し,神埼(かんざき)郡三瀬(みつせ)村の栗原川・高瀬川などを合わせ,佐賀郡富士町との境にある北山ダムを経て,多くの河川を合わせながら,富士町・同郡大和(やまと)町・佐賀市西縁から小城(おぎ)郡三日月(みかつき)町・佐賀郡久保田町との境をなして有明海に注ぐ。延長56.9km・流域面積289km(^2),1級河川。嘉瀬川水系には,長さ5km以上の河川は本流を含めて9河川,5km未満の河川は35河川である。この川の灌漑面積は約1万1,000haで,穀倉地帯佐賀平野の母なる川である。佐賀郡大和町の石井樋(いしいび)付近より上流を川上川(疏導要書)と呼ぶこともある。「肥前国風土記」佐賀郡の条に「郡の西に川あり,名を佐嘉(さか)川といふ。年魚(あゆ)あり。その源は郡の北の山より出で,南に流して海に入る」とあり,奈良期はこの川を佐嘉川といった。なお,同書には「此の川上に荒ぶる神ありて,往来の人,半を生かし,半を殺しき,ここに県主等の祖大荒田占問ひき。時に土蜘蛛,大山田女,狭山田女といふものあり」と見え,佐嘉川(嘉瀬川)の上流の川上について述べている。現在この地域大和町には東山田と西山田の地名がある。当時,肥前国府は現在の佐賀郡大和町にあったが,この川は今の市ノ江水道から巨勢(こせ)川・佐賀江川を経て筑後川に注いでいたと考えられ,佐賀郡諸富(もろどみ)町徳富の大津は国府津であったと考えられる(県史)。また,平安・鎌倉期には,今の多布施(たふせ)川から八田江を結ぶ河道になり,戦国期は多布施川から本庄江を結ぶ河道になり,さらに江戸期のはじめ現在の河道になったと考えられている。このように河道は漸次西に移ってきた。その原因は筑後川の堆積作用による東部地域の地盤の高まりによると考えられる(嘉瀬川農業水利史)。古来幾度か河道を変えてきたように,この川の流域は洪水の常襲地帯であった。この荒れ川の河川改修に最初に取り組んだのは,近世初期の佐賀藩士成富兵庫茂安で,遊水地帯の設置・堤防補強のための植竹・石井樋の構築などを行った。なかでも石井樋の構築は,この川の水を多布施川に分流し,佐賀城下の日常用水や農業用水として供給するのに重要な役割を果たした。「疏導要書」に「是ヲ以テ作ル所ノ田地凡八,九千町,米穀ノ出来ル所既ニ二十万石。人命ヲ繋グ事凡十五,六万人也 誠ニ御国第一ノ宝川ト云ベシ」と記し,この川の価値を高く評価している。この川の本流や分流は,舟運にも利用された。分流の多布施川・巨勢川・佐賀江・八田江・本庄江などには川船が往来し,多布施川では川上までの川船が用いられ,川遊びも行われていた。嘉瀬川本流を水路とする河港について,「津今昔」(佐賀新聞)などにより上流部からあげると,嘉瀬津・大立野・久富がある。嘉瀬津(佐賀市嘉瀬町)は近年まで嘉瀬川に面していたが,蛇行部分がショートカットされ,旧河道は森林公園になっている。河港として栄えたのは中世で,ここにある法勝寺は俊寛の開基と伝えられる。俊寛は治承元年の鹿ケ谷の陰謀で鬼界島(硫黄島)に流された。寺伝では,俊寛は許されて京へ戻る平判官康頼と丹波少将成経とともに嘉瀬津へ上陸し,隠れ住んだという。「平家物語」に「少将成経康頼法師ハ,鬼界カ島ヲ出テ,平宰相ノ領,肥前国,鹿瀬庄ニ着給フ……」とある。ここは江戸期も長崎街道の宿場町・河港として栄えたが,港が浅くなり船舶の出入も次第に減少した。大立野(佐賀郡久保田町)は近世中ごろ,横江付近の嘉瀬川の蛇行を直す工事が行われて,ここに河港が移ったと考えられる。明治17年この港が漁浦に指定され,有明海一帯を漁場とする漁港として活況を呈した。昭和40年に佐賀市魚市場に合併され,その分場として機能している。久富には前記の大立野とともに天明7年御番所が設置され物資の出入りと人の移動を監視した。御番所の横には2,000俵の米を入れる高倉が6,7棟並び,遠くは神戸・大坂方面へも出荷していた。明治21年には漁浦に指定され,ムツゴロウ・アゲマキ・ウナギなどを扱う漁港として活況を呈した。近年は海苔漁業の盛んな港の1つである。嘉瀬川の旧河道の1つと思われる本庄江の河港には高橋・厘外(りんげ)・今津・相応(そうおう)津がある。高橋は本庄江をさかのぼる川船の終点であった。天草や八代からも荷船がバラス・木炭・薪・カライモなどを運んできた。入船は多いときは14,5隻あり,その時は市が立ち近くからの買物客でにぎわった。呉服屋・菓子屋・米屋・材木屋・料理屋などが軒を並べ「西の今宿」といわれた。この港も昭和期になり鉄道やトラックなど陸上交通の発達につれ衰退した。厘外の船着場は「天狗の鼻」と呼ばれる本庄江分流点近くにあった。川口から約6km上流部に位置していた。この港は安政4年に船数49艘,竈数98軒,人別445人とされている。入船は石炭・石灰・カライモ・石材・薪などを積んできた。文化12年には鹿島藩の御用船浪吉丸が鹿島の浜津とこの港を往復したという。今津は厘外の港から約1km下流にある。安政4年,今津は上町・下町合わせて船数30艘,竈数139軒で佐賀藩水軍の船手舸子が多く,人別は673人となっている。今津の名物にかまぼこがある。一時はかまぼこ製造所が20軒以上もあった。河港は,今は海苔船の出入りだけになっている。相応津は本庄江最下流部の河港で,安政4年の川副(かわそえ)・与賀(よか)・嘉瀬津目安によると,相応津は上町(かみまち)と下町(しもまち)に分かれ,上町は船23艘・人別は448人・竈数は87軒,下町は船39艘・人別512人・竈数95軒となっている。この港は上記の今津が佐賀藩水軍の基地であったのに対して,漁港または商港の性格が強かった。嘉瀬川の治水事業は,最初成富兵庫茂安によって取り組まれたが,本格的な改修は昭和25年嘉瀬川改修事務所ができてからのことである。川幅拡大や蛇行のショートカット工事などが実施され,また昭和32年北山ダムが完成,さらに同35年に川上頭首工が完成したことによって,流域の水害や干害の防止に大きな役割を果たすことになった。この川の中流付近には古湯(ふるゆ)・熊の川温泉や風光明媚な川上峡などがあり,背振北山県立自然公園や川上金立(かわかみきんりゆう)県立自然公園の一部をなしている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216453