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佐賀平野
【さがへいや】


県の東南部に位置する平野。九州最大の河川,筑後川下流部一帯の堆積平野を筑紫(つくし)平野という。この平野を筑後川によって,左岸(福岡県側)の筑後平野(広義)と右岸(佐賀県側)の佐賀平野(広義)に区分する。広義の佐賀平野を,主として牛津(うしづ)川以東の佐賀平野(狭義)と南西部の白石平野に区分する。狭義の佐賀平野をさらに細分する時は,神埼(かんざき)郡三田川町以東の洪積層の台地のある地域を三養基(みやき)平坦といい,その西部を佐賀平坦と呼ぶこともある。佐賀平野(以下狭義)は背振山地の南側,中央構造線の西部延長としての松山―伊万里(いまり)線の断層崖下にあり,わずかに複合扇状地が裾を引き,それ以南の地域は標高5m以下の低平な平野である。現在の筑後川の川口は貝塚線,すなわち約2,000年前の海岸線から20km沖合いにあり,毎年10mも陸地が海へ延びたことになる。陸化の進行が早いのは,筑後川をはじめ,六角(ろつかく)川・嘉瀬(かせ)川などの源,背振山地や耳納(みのう)山地(福岡県)が断層山地で急傾斜の地形をなし,山体が風化されやすい花崗岩などよりなっていることが,川の浸食作用や堆積作用を大きくしたからで,また有明海の潮の干満差が大きいことが,満潮時に土砂を逆搬して堆積を促すからである。濁水中に含まれる細かい泥の粒を浮泥(ふでい)というが,これが海に入ると塩水によって凝集し,海底に沈積して,干潟の形成に大きな役割を果たす(農業土木学会誌1978)といわれている。これらの自然的条件に加えて,古来人間の力で干拓してきたからである。佐賀市と福岡県久留米(くるめ)市を結ぶ国道264号は,標高4m線と大体一致するが,この線は弥生時代の貝塚線で,当時の海岸線と推定される。川上扇状地付近は国府の所在地として,律令期には肥前一か国の政治文化の中心地であった。条里の遺構は大体平野北部の山麓付近から牛津・佐賀・詫田(たくた)・江見・久留米を結ぶ線に及び,それ以南は平安期以降の開発である。条里地名として,文保2年日付の河上神社への注進状に,六条・七条・大田里・木原里などが記名されている(河上神社文書)。また,地形図からは小城(おぎ)郡三日月(みかつき)町の四条・五条・馬見ケ里,同郡牛津町の練ケ里(ねりがり)・神埼郡神埼町の駅ケ里(やくがり)など数多く読みとれる。土地開発の上で開墾から干拓へ移行する漸移地帯は,佐賀郡川副(かわそえ)町北部の米納津(よのづ)・南里から西方小城郡芦刈(あしかり)町下古賀・浜枝川字川越を結ぶ標高約3mの線と考えられる。当平野の干拓事業は,元寇後恩賞地不足などの土地不足に伴って起こったものと推察される。高城寺文書には,正応元年に「肥前国河副荘米(納)津土居外干潟荒野一所之事」とみえ,当時の海岸線が現在の佐賀郡川副町福富・米納津・南里,佐賀市本庄町上飯盛(かみいさがい),同嘉瀬町中原,佐賀郡久保田町福島,小城郡芦刈町下古賀を結ぶ線で前述の開墾から干拓への漸移地帯であることが推察される。また鎌倉から戦国期にかけて形成された環濠集落の遺構として神埼郡千代田町上直鳥(直鳥城),神埼町姉川(野田城)などがある。戦国末期の海岸線は,「慶長国絵図」によれば,現在の佐賀郡川副町犬井道(いぬいどう),同郡東与賀(ひがしよか)町住吉・大野,佐賀市西与賀町高太郎の丸目,同嘉瀬町地区,佐賀郡久保田町の久富,小城郡芦刈町新村などを結ぶ標高2.3~2.5mの線となる。同絵図にみえる当平野の南限の郷村として,早津江・鰡江(しくつえ)(川副町)・鹿子(かのこ)・飯盛(いさがい)・加世(以上佐賀市)・大俣(おおまた)(久保田町)・平吉(ひらよし)(芦刈町)などが記載されている。天文22年竜造寺隆信が筑後一ツ木村から帰国する際,上記の線の北にある鹿江(かのえ)(現在の川副町鹿江)に上陸して威徳寺(いとくじ)に入っている(県干拓史)。「元禄国絵図」を見ると,その南限集落として犬井堂・小籠(こごもり)(以上川副町)・住吉・大野(以上東与賀町)・丸目(佐賀市)・久富(久保田町)・永田ケ里(芦刈町)が記載されており,慶長年間から元禄年間に至る約90年間に約2.5km干拓によって海岸線が南へ拡大し,新田が開発されたことになる。今日遺構が確認できる最古の潮止堤防は,松土居(本土居)と呼ばれ,東は筑後川川口近くの早津江から六角川川口の芦刈町住ノ江に至り,さらに対岸の現在の杵島(きしま)郡福富町住ノ江から同郡有明町戸ケ里に達する。この土居は江戸初期の寛永から寛文年中に佐賀平野の守りとして標高2m付近に構築された長さ約30kmに達するもので,この土居を境として,土居の内側を揚(あげ)または揚地と呼び,地名に籠(こもり)のつく干拓地が多く,土居の外側は地名にほとんど搦のつく干拓地で,景観を異にする。佐賀藩における殖産興業の一環として,干拓事業が積極的に進められたのは,天明3年六府方(ろつぷかた)の1つ搦方(からみかた)が設置されてからである。この搦方の主な任務は農民干拓を指導援助し,小規模な搦の集積後,防潮堤防を補強してそれらの保全を計ることにあった。小規模ながらたくさんの鱗片状干拓地が造成され,幕末から明治初頭の海岸線は標高1.3m付近で,佐賀郡川副町の無税地搦,同郡東与賀町の授産社搦,同郡久保田町の旦那様(だんなさん)搦(一名江戸搦),小城郡芦刈町の社搦を結ぶ線まで進出している。現在の潮受堤防線は,標高約0.3~0.7mで佐賀郡川副町大詫間(おおだくま)干拓・南川副干拓・国造(こくぞう)干拓・西川副干拓などが有明海の第一線堤防となっている。佐賀平野(広義)の面積,約470.4km(^2)のうち自然陸化は約306km(^2),干拓地は約164.4km(^2)となっている。佐賀平野(狭義)の特殊景観としては,網状に発達したクリーク(溝渠)がある。この溝渠網は平野の中部以北の条里地域は比較的整然としているが,中央部から南寄りには不整形かつ大型のものが多い。これらの溝渠の中には干潟時代の澪(みお)の名残で後世人工を加えたものや,中世の武士団や豪族が防盗防敵用として設けた環濠も各地に見られる。南部の干拓地域では溝渠網も整然となり,幹線水路以外は小溝渠が多い。これら大小数多くの溝渠は昔から佐賀平野の水田の灌漑排水用として,また生活用水として,重要な役割を果たしてきた。しかし,近年それらの統廃合問題が生じ,一部ではその事業が進められている。平野の水利は背振山地に源を発する嘉瀬川をはじめ城原(じようばる)川・田手(たで)川などに求めているが,とくに嘉瀬川はその上流に北山(ほくざん)ダムを有し,川上頭首工を基点に幹線水路網が整備されこの平野の120km(^2)を潤している。また,筑後川右岸を中心とする佐賀平野の東部一帯では,大体標高4mの線付近に樋門を設けて満潮の溯流を防ぎ,流下する淡水や逆流する「アオ」(感潮河川の逆流淡水)を堀に貯水して灌漑に供している。当平野の米作は極めて集約的で,機械化も進み,第2次大戦前から「佐賀段階」の名で全国第一の米の土地生産性を誇った。戦後は多角経営の推進に伴い,北陸諸県の単作地帯に凌駕されるに至った。そこで,県当局は昭和39年新佐賀段階米づくり運動を展開し,同40年と41年に連続して,10a当たり収量日本一を記録した。これらの記録は平年作県下全収量の5分の4を産出する当平野に負うところが大きい。このように土地生産性の高い佐賀平野も,米の減反政策,それに対応する転換作物など,農業の前に立ちはだかっている多くの問題をかかえている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217045